せろりんです。2019年の冬に放送していた「バミューダトライアングル~カラフル・パストラーレ~」略してカラパレを皆様ご覧になりましたでしょうか。マジの名作なのでマジで見ましょう。
カラパレは、海底の田舎町・パーレルで暮らす5人のマーメイドがアイドルを目指すことを決意するまでの日常や非日常を描いたアニメです(アイドルを目指すアニメではないです)。
とにかく筆舌に尽くしがたい名作アニメで、筆舌に尽くしがたいとか形容しがたいとか言語に絶するとか神とかそういった言葉はすべてこのアニメのためにあります。おれは好きすぎて一時期は毎日のように見ていました。メッチャ好きなので語っていきたいと思います。海は広くて狭いので、このアニメについてはわからないことも多いんですが、わかることだけでも書いていこうと思います。今回はカラパレの重要なテーマである「5人いっしょ」の観点から考えていきます。
3話「5人いっしょ」
カラパレ3話は、まさしくこの記事のテーマでありカラパレのテーマでもある「5人いっしょ」というサブタイトルを冠した話です。映画館を皆にとって心地良い場所にするために、じゃあ心地良い場所ってどんな場所なのか?について考える話です。
心地良い場所ってどんな場所なのでしょうか。心地良いってどんな状態でしょうか。自分にとっての「心地良い」を言葉にすることはとてもかんたんです。たとえばおれはゴチャゴチャした家の机でツイッターをやっているときに心地良さを感じます。コーヒーの香りに心地良さを感じると言う人もいれば、一番風呂に心地良さを感じると言う人もいます。とはいえ食べ物の匂いがすると落ち着かないと言う人もいれば風呂が嫌いな人も居るはずです。自分にとっての「心地良さ」を語ることは容易ですが、「他人」や「皆」にとっての心地良さを探るのはとても難しいことです。
5人で心地良い映画館のことを考える一方で、ソナタ、キャロ、フィナ、セレナの4人は、移住してきたばかりのカノンにとっての「心地良い場所」も作ろうと努力します。
1人で居るときのカノンがこれです。実に落ち着きがありません。さすがの我々も自宅でこんな転がり方をすることはありません。はやくこれになりたい。一人で居ても落ち着かないカノンは、4人を探しに出かけます。
「心地良い場所。パーレルに来てくれたカノンにとっても、そうであってほしいと思って。」
「私のため・・・?」
「うん。ゆっくりできて、ずっと居たくなるような。」
「ずっと・・・」
「ずーっと5人いっしょに居たいってこと!」
カノンを待っていたのは綺麗に装飾された映画館と、4人の姿でした。カノンは自分の気持ちを口にします。
「私、逃げてきて。アトランティアから、スカウトから逃げてここにきて。自分に自信がなくて、ずっと不安で。だけど、今はここに居たくて。そのこと、皆さんにちゃんと伝えておきたいです!」
カノンが自分の過去を明かしたのは、4人と一緒にいることが心地よいからにほかなりません。4人はカノンにとっての「心地良い場所」に気がついて、カノンを村に迎え入れました。
そう、カノンにとっての「心地良い」は、5人いっしょに居る時間のことなのです。
ひじきサンドと5人いっしょ
「あのねキャロちゃん!映画はひじきサンドなんだよ!」
「ひじき・・・サンド・・・?」
「あのね。今日ソナタちゃんの放送聴いて思ったの!映画もひじきサンドも、おんなじものを皆で見たり、食べたり、それが楽しいんだって!」
(中略)
「あたし、見たい映画決めた!最初に見つけた『楽しい』を、みんなと一緒に見たい!それでもっともーっと、この特別な気持ちをいっぱいにするの!」
第5話「びっくりワクワク」で5人が選んだ映画は、5人で最初に見た映画でした。面白い映画は世の中にクラゲの数ほどあるので、よく探せば最初に見た映画よりも面白い映画はあるかもしれません。それでも5人は最初に見た映画を選びました。
ひじきサンドより美味しい食べ物だって世の中にいくらでもあるはずです。冷静に考えるとパンにひじきを挟んだものがそこまで美味しいとはとても思えません。1話では「とはいえ年頃の女の子がひじきなんてねぇ・・・あんたたちも、ちょっと可哀想よねぇ」と言われています。海藻ばっか食ってるマーメイドの視点から見ても、ひじきサンドは特にそれほど美味しいものでは無いのです。それでも5人はひじきサンドを食べます。
5人は、食べ物や映画の質よりも5人いっしょに体験することのほうが重要だと思っているのです。
キャロの元気の源は?
元気ですかァーーー!!!元気系として全宇宙に名を馳せるキャロが活躍する回が9話「ね、君も食べる?」です。9話の冒頭では、カノンに手伝ってもらいながら身支度を済ませるキャロの姿が描かれます。ところが、セレナは朝ごはんの材料に使う珊瑚糖を切らしていることに気が付きます。
「あら・・・珊瑚糖が空っぽだ」
「そしたら私、フェルマさんに分けてもらってくるよ!」
「えっ!キャロちゃん!」
「すごい・・・あっという間だね」
「朝からパワー全開だ」
「あの元気はどこから湧いてくるのでしょうか・・・」
いろいろな描写から、寮と市街地はまあまあ離れていることがわかります。正確な距離はわかりませんが、朝から往復するにはさすがに骨が折れる距離であることはわかります。それでもキャロは躊躇せずに街まで珊瑚糖をもらいにいきます。朝から元気マックスです。
ところで「あの元気はどこから湧いてくるのでしょうか」?
元気な人だから元気なのだ、と言ってしまえばそれまでですが、よく思い返すとキャロだっていつも元気なわけではありません。9話では元気ではないキャロの姿も描かれています。
撮影中のキャロはどう見ても元気ではありません。めちゃくちゃに緊張して声が震えています。「ね、君も食べる?すっごく美味しいよ!」その一言がうまく言えないキャロを、4人はエスポワールの入り口から見ていることしかできません。
撮影が終わってもキャロはずっと落ち込んでいます。キャロの力になりたい一心で、4人はできる限りのことをします。カノンはキャロと一緒に落ち込み、セレナは映画講座を開き、フィナはお風呂を勧め、ソナタはハーブティーを淹れます。
「ね、皆も飲んでみる?すっごく美味しいよ!」
そうしているうちにキャロは元気を取り戻します。そして、何度やっても自然に言うことができなかったあのセリフと同じことを、今度は極めて自然に言うのでした。
おわかりいただけただろうか。キャロの元気は、5人いっしょの時間から湧くのです!
考えてみれば、キャロはカノンが居なければ髪も結べず、フィナが居なければ朝食も作れません。4人だって、キャロが居なければ今朝は甘くないパンケーキを泣きながら食べていたことでしょう。キャロの元気は、そして5人の元気は、5人いっしょの時間から生まれていたのです。
ソナタの永遠
「キャロちゃんがいると、パッとその場が明るくなるっていうかさ。眩しくて、見逃せなくて、今この瞬間を残しておきたいって思うんだよね。映画はその一瞬を永遠にできる、魔法の道具なの。なんてね。」
せいぜい100年で死んでしまう我々にとって、永久磁石や永久凍土はほとんど永久です。ところが寿命が我々より長い存在にとってはそうではありません。寿命が長いマーメイドの世界にあって永遠と呼べるものはほとんどありません。
それでも、マーメイドにとっても殆ど永遠だと言われているものが「映画」です。確かにキネオーブは保管に気をつければかなり長いあいだ形を保つことができます。しかも映画は複製することが可能です。宇宙はいつか、でも必ず滅ぶらしいので真の永遠は存在しませんが、映画はマーメイドが生きているスケールではほとんど永遠です。
「ソナタの使った撮影機は、本当にソナタが撮りたかったものを撮ったんだよ!」
「えっ、私が本当に撮りたかったもの・・・」
ソナタの撮影機は、ソナタが永遠にしたいと思ったものを撮ります。ソナタは何を撮ったのでしょうか。
おれはソナタが撮った映画を見ると必ずボロ泣きしてしまうので手短に行きますが、ソナタの撮影機に写ったのは、天に登っていく美しいクラゲの群れではなく、それを見ている4人の姿でした。年に1度しかない祭りではなく、それを楽しんでいる人々の姿でした。祭りなんてなくてもいつだって揺れているキャロの後ろ髪やポコの尻尾でした。5人いっしょならいつでも見られる、でも5人いっしょじゃないと絶対に見ることが出来ない5人の寝顔でした。
ソナタが永遠にして残しておきたいと心の底から願ったものは、5人いっしょの時間でした。
5人いっしょの夢
歌うことから逃げてきたカノンは、パーレルで過ごすうちに、再び歌いたいと思うようになります。ただし以前のように一人で歌いたいとは思っていません。5人いっしょに歌いたい。これがカノンの願いです。
でもカノンはそんなことを4人に言い出せるはずがありません。なぜなら4人はアイドルになるという進路をまったくこれっぽっちも考えていなかったからです。
「それって・・・5人で、ってこと?」
結晶化してしまったカノンの気持ちを知った4人は、戸惑いながらも5人いっしょにアイドルを目指すことを決意します。
ここで重要なのは、カノン以外にはアイドルを目指す積極的な理由がまったく無いという点です。別にアイドルじゃなくても良いのです。カノンがアトランティアで左官屋になりたいと願ったなら5人いっしょに左官屋になったことでしょう。5人いっしょにいることだけが重要であって、アイドルかどうかはどっちでも良いのです。
別にアイドルじゃなくてもいいけど、5人いっしょに居るためにアイドルを目指す。この展開は、夢を追いかけることを描いたアニメとしてはとても斬新な展開です。我々の社会においてもとても勇気ある選択です。
たとえばおれたちが進学先を選ぶ時、あるいは就職するとき、キャリアを考えるとき、「友達が行くから自分も一緒のところに行く」なんて理由で将来を決めたら保護者からブン殴られるでしょう。「真剣に考えなさい」と言われるでしょう。高校くらいまでなら「友達が行くから」で進路を決めることもあると思いますが、それ以降の進路を「友達が行くから」で決める人は、居なくはないものの決して多くありません。親や教師や社会からブン殴られるからです。でも、なんで「友達が行くから」じゃダメなんでしょうか。なぜそれは真剣だと受け取ってもらえないのでしょうか。
3年間楽しい日常を共有しながらも、最終話の卒業式ではみんな別の進路を目指してバラバラになってしまう日常系アニメを見るとおれは悲しくなります。何らかの理由で(きっとしょうもない理由に違いありません)島を去ってしまったグラディスの友人だってそうです。その進路は、その目標は、果たして楽しかった日常の延長戦をやることよりも大事なことなのでしょうか。それって、「夢を叶えろ」「自己実現をしろ」という呪いの言葉に騙されてませんか。「友達といっしょに居たいから」で未来を決めることができない社会はとても息苦しいものじゃないでしょうか。おれたちはもっと自由に未来を決めていいと思いませんか。もっと無責任でいいと思いませんか。どこに住んでもいいし、誰と過ごしてもいいし、何をやってもいいと思いませんか。アイドルアニメの主人公みたいにキラキラした理由なんか無くても、何かを目指していいと思いませんか。もっと、楽しそうだからとか、面白そうだからとか、友達といっしょがいいからとか、そういうくだらない理由で将来を決めてもいいと思いませんか。 5人いっしょにいることが何よりも幸せなら、大してなりたくないアイドルを5人で目指してもいいと思いませんか。それだけが一瞬を永遠にし続けることができる唯一の方法だとは思いませんか。カラフルパストラーレの物語はおれたちにそう問いかけている気がするのです。
簡単なことです。一緒に居たいなら、一緒に居るようにすれば良いのです。「バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~」は、5人いっしょという、ただそれだけを願った5人の話です。
終わり
せろりんでした
この記事は、当サイトの前身「日本霜降社」に掲載されていた記事を移転したものです。
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