せろりんです。アニメ「安達としまむら」の感想と考察を書きます。
せろりんは原作も読んだんですが、今回はアニメの範囲に絞って感想と考察を書いていきます。
アニメのネタバレがあります。
も く じ 🐬
行動力だけですべてをなんとかする女
おれは「安達としまむら」の序盤を見てるときに、安達とかいう女はザコの中のザコだと勘違いしていました。世の中いろんなアニメキャラクターがいますが、ここまでザコい人間はなかなか居ないよな、と思っていました。たしかに安達はザコ感が半端じゃないです。クリスマスにチャイナドレスを着てくるところとか、すぐキョドってしまうところとか、そういうのを見ていると「こいつ大丈夫かな?」「この先生きのこれるのかな?」と思ってしまいます。
ところが「安達としまむら」を最後まで見た我々は知っています。安達みたいなやつこそが最強の女なのであって、それと比べるとザコなのはおれのほうです。安達の最強たるゆえんは、なんといっても行動力です。
安達、いや、安達さんは、例えば8話ではチョコ作りにいそしんでいます。この服の汚れ方を見るに、普段はお菓子作りどころか、ちょっとした料理もしないんでしょう。にも関わらず、とりあえずチョコを作ってみるのが安達です。
とはいえ、手作りはムズいし、手作りなんてしまむらには「重い」と言われてしまいそうなので、結局は名古屋のデパ地下で買った新鮮なチョコレートを渡すことになります。でも、いろんなチョコを買って食べ比べてみたり、とりあえずで自作にチャレンジしてみたりするのは凄い行動力です。行動力の女ですね。
安達はしまむらとの「特別な関係」を望んでいます。だから、下手くそだろうと不味かろうと、手作りのチョコを渡したほうが「特別な関係」っぽくて安達にとっては嬉しいでしょう。でも、しまむらは手作りの貧相なチョコよりも、デパ地下のゴディバみたいなチョコのほうが喜びそうですよね。結果、安達はデパ地下のゴディバみたいなチョコを渡します。自己満足に走らず、確実に相手の欲しがる物をプレゼントするのが安達です。
クリスマスのときだって、すぐに飲んでしまう紅茶なんかではなく、もっと形に残ってずっと使ってもらえるものを贈れば特別感が出たことでしょう。でも安達は、「しまむらが欲しがっていた」という日野の情報に賭けて紅茶を渡しました。自己満に走らずに、相手の欲しい物を的確にプレゼントするのが安達という人間です。クリスマスにブーメランをプレゼントするヤツにも見習ってほしいですね。突っ走っているように見えて、意外と冷静で、したたかなのが安達です。
でも、とりあえずしまむらの誕生日はゲットできた!
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」8話より
したたか、といえばここです。星座を聞いたついでにちゃっかり誕生日をゲットしています。思ったより強く生きているっぽいです。ザコとか言ってすいませんでした。
「あの、しまむら (言うな、言うな、言うな)
あの、座ってもいいかな。しまむらの、足の間とか」
「いいけど」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」2話より
2話でこれを言っちゃうのが、もう凄いです。おれが安達だったら2話の親密度では流石にこれは言えません。安達にも「引かれるかも」「キモがられるかも」といった葛藤が当然あったはずですが、それでも言ってしまうのが安達です。
その後も「私の頭を撫でてみてくれない?」とか「あったまろう!」などと、かなりグイグイいきます。それを受け入れてしまうしまむらもしまむらなんですが、「言っちゃえ」「やっちゃえ」という勢いだけで自分の願望を実現していく安達の姿は痛快そのものです。行動力だけで全てをなんとかする女ですね。念能力で言えば強化系だね・・・♠
この世界に神様はいるだろうか。私の声なき祈りを聞き届ける何かはいるだろうか。私は願う。私は求める。背を伸ばし、その名前を―――
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」10話より
行動力だけで全てをなんとかしている様子が表れているのがクラス発表のシーンです。クラス替えは安達にとってメッチャ深刻な問題です。クラスが別になったら、しまむらはわざわざ安達に会いに来ないでしょう。しまむらはそういう薄情な人間です。
実際しまむらは、クラスが別になったことが原因で樽見と徐々に疎遠になってしまった前科一犯を持っています(樽見としまむらが疎遠になった理由については、原作だと序盤にチラッと語られますが、アニメではカットされています)。
で、運命のクラス替えに際して、安達にできることといえば祈ることくらいです。安達のことなので、かなりガチめのお祈りを毎日何回も捧げていたに違いありません。結果、安達はしまむらと同じクラスになることができました。
ということは、「この世界に神様はいる」んでしょうか?うーん、それはなんとも言えないです。この世界には、宇宙人や易者やシャーマンはいるっぽいですが、神様の存在は明らかにされていません。神様が居ないのだとしたら、安達としまむらが再び同じクラスになることができたのは何故なんでしょうか?
「また一緒かあ。何年目だっけ?」
「10年くらい?」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」10話より
そういえば、日野と永藤は10年も連続で一緒のクラスらしいです。そんなことってありえるんでしょうか?1学年に2クラスしか無いとしても、クラス替えが完全にランダムだとしたら2人の人間が偶然10回連続で同じクラスになる確率は1024分の1です。いくらなんでも偶然とは思えません。
有名な話なんだと思いますが、クラス替えというのは別にランダムに決まっているわけでは無いらしいです。双子は紛らわしいから別クラスにするとか、クラスに1人はピアノが上手な人を配置するとか、学校サボりがちな子供は友達を一緒のクラスにしてやるとか、基準がいろいろあるらしいです。へ~。そういえば、日野家は地元の名士みたいな家らしいですね。HINOの社長か何かでしょうか?
とすると、神に祈るほどの切実な態度の安達を見て、安達としまむらを同じクラスにしてくれた教員がいたのかもしれません。なるほど、祈るほどの切実さは間接的に周りの人に通じるのかもしれないですね。
神がいるにせよ、いないにせよ、メカニズムはどうあれ、安達の祈りは通じたみたいです。もちろんこれは、「祈るぞ」と決意して本当に祈ってしまう行動力の結果です。おれみたいなのは「神なんて居ないんだから意味ねえよ」と思って結局何もしませんが、安達はごちゃごちゃ言う前に行動を起こします。行動力だけで全てをなんとかする女、それが安達です。
「に、げ、な、い、ぞー!!」
「まさか本当にやるとは」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」11話より
10話でモブ三人組に気圧されて一瞬だけ行動力が引っ込んでしまった安達ですが、11話ではエキシャーマンさんのアドバイスで行動力を取り戻すことができました。もちろん、「逃げないぞ」と叫ぶことにも行動力が必要です。「まさか本当にやるとは」と、流石のエキシャーマンさんも安達の行動力にビビっています。
安達は最初からかなりグイグイ行く性格でしたけど、エキシャーマンさんは安達にかろうじて残っていた非常用ブレーキみたいなものを完全にぶっ壊してしまったのです。ウケますね。
安達の行動力はどこから?
おれも安達の行動力を見習いたいな、と思うんですが、とはいえ無から行動力が突然生まれることはありません。安達の行動力はどこから来ているのでしょうか?
冷静に考えると、好きな女の子にグイグイ行く態度は、普通は自分に自信のある人にしかできません。ところが、2話以降を見たおれたちは、安達の自己肯定感の低さ、自信の無さを、とてもよく知っています。クリスマスにチャイナドレスを着てくるのが良い例です。一度褒められた服や、普段着ている服をついつい着てしまうのは、自信の無さの表れです。おれがそうなので気持ちはよくわかります。では、なぜ安達は自分に自信がないのにしまむらにグイグイ行くことができるのでしょうか?
「うん、おいしい!」
「本当にそう思ってる?」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」9話より
安達がしまむらにグイグイ行くのは、そうしないと生きていけないからです。
安達は、しまむらに出会うまでは、何事にも興味がないガチの虚無人間でした。アニメを1話から見返していてビビったんですが、しまむらが関係していない場面で、安達が「楽しい」「面白い」「嬉しい」「美味しい」といったプラスの感情を表に出したことは一度もありません。しまむらが関係ない場面では、安達は、気だるいとか、めんどいとか、退屈だとか、そういう感情だけで生きているように見えます。
まず、安達は食事に興味がありません。好きな食べ物は?と聞かれて「水」と答えるくらいの人間です。8話では、しまむらへ贈るチョコを選ぶために、買い溜めしたチョコだけで昼飯を済ませている姿が描かれています。三度のメシより三度のメシが好きなおれからすると、貴重な3食のうちの1食をチョコだけで済ませるのは常軌を逸しています。おれだったら、せめてチョコ以外にもポテチみたいなしょっぱいものを買ってバランスを取りたいところです。そうせずにチョコだけで昼飯を済ませてしまうあたり、安達は本当に食事に興味がないんでしょう。
おそらく、安達はメシを食べてもそんなに美味しいと感じず、ただ空腹になると辛いからしょうがなくメシを食べてるタイプの人間です。多くの人が無条件で幸福に感じる食事の時間を、安達は幸福だと思いません。
9話では、しまむらに貰ったチョコを食べて「おいしい」と言っている安達に対して、「本当にそう思ってる?」と突然に謎の疑いをかけるしまむらが描かれます。しまむらは、安達が食に無関心であることを知った上で、おそらくですが「コイツ食事に無関心なのにチョコはおいしいと感じるのかよ」と疑問に思ったんでしょう。まあ、しまむらに貰ったチョコを美味しく感じたのは本当なんだと思います。なんてったって安達はブーメランや空き缶を貰って喜ぶ女です。チョコなんてもらったら、そりゃあ美味しくないものも美味しく感じるはずです。
安達は、趣味を持っているわけでも、部活をやっているわけでも、勉強に打ち込んでいるわけでも、カネやモノに興味があるわけでも、しまむら以外に友人がいるわけでもありません。しかも、しまむら以外に友人を作る必要なんてまったく無いと、強がりではなく本気で思っています。安達の部屋にはテレビがあるので恐らくテレビくらいは見るんでしょうけど、きっと、面白いから見るというよりは一人でぼーっとしている時間が苦痛だから退屈な時間を加速させるために見ているんだと思います。安達が何事にも幸福を見いだせない虚無人間になった原因は、恐らく母親であるサウナおばさんにネグレクト(育児放棄)気味に育てられたからです。
平均的な高校生、たとえばしまむらは、なんだかんだ言いつつも毎日をそれなりに幸せに生きています。朝起きれば両親と妹が食卓に座っていて、親が焼いてくれる温かいトーストは今日もうまいし、学校に行けば何人かは友人がいて、家に帰ればテレビがそこそこ面白い。そういう日々を過ごしています。このシーンのしまむらだって、一人で風呂に入っているのに鼻歌を歌っていて、そこそこ楽しそうです。
安達には、こういうのはありません。しまむらのことを考えてニヤニヤすることはあるかもしれないですが、しまむらが関係ない場面で鼻歌を歌ったり、楽しげにしていたりするシーンは、一つもありません。しまむらに出会うまでの安達は、おそらく生きている理由が「死ぬのは流石に嫌だから」以外に一つもないスーパー虚無人間なのです。
つまらない、つまらない、しまむらが居ないとなんてつまらないんだ。
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」11話より
ところが、しまむらと出会ってからの安達は楽しそうです。しまむらと一緒なら、毎日が楽しいのです。しまむらと一緒にピンポンするのは楽しいし、しまむらと授業に出るのは楽しいし、しまむらとショッピングモールに行くのは楽しいのです。ピンポンも授業もモールも、今まではなんにも楽しいとは思えなかったのに、しまむらと一緒なら楽しいのです。
安達はしまむらに与えられるものだけで生きています。しまむらが一緒に遊んでくれたり、手を繋いでくれたり、頭を撫でたりしてくれるから、安達の生には意味があるのです。しまむらが居なくなってしまったら、安達は死んでいるも同然の元の生活に戻ってしまいます。
今後も安達が人並みの幸福を感じながら生きていくには、しまむらとの縁が1分でも1秒でも長続きするように関係を少しずつ強固なものにしていく必要があって、だから安達はグイグイ行くのです。安達が「特別な関係」にこだわるのは、おそらく、特別な関係は長続きするだろうと、そう信じているからです。
犬が飼い主に捨てられたら生きていけないのと同じように、しまむらが居なくなったら安達は生きていけません。安達がしまむらにグイグイ行くのは、グイグイ行かないと元の死んだような生活に戻ってしまうからです。安達はそういう悲惨な世界を生きているのです。ゆるい百合アニメみたいなツラをしているこのアニメは、実は安達の生存闘争の記録なのです。「安達は童貞の擬人化」だなんて言われることがありますが、そのへんの童貞が気まぐれで好きな女の子を追いかけるのとは切実さがまったく違います。ところで、安達はしまむらのどういう部分に惹かれていったのでしょうか?
しまむらのバブみにオギャれ!
しまむらの胸をどう感じるかで、大体わかると思う。私のしまむらに対する好意の正体は、そこで見極められる。
私は・・・私は、しまむらの胸を見たいのだろうか?見たくもない・・・というほどではないけど、率先して見たいか、と言うと、そこまででもない・・・か。
な、なーんだ。案外普通じゃないか。私の、しまむらへの想いは純粋な好意で、人としてしまむらが好きなだけなんだ。
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」7話より
「しまむらの胸をどう感じるか」で、「しまむらに対する好意の正体」が「大体わかる」らしいです。
で、しまむらの胸のことを悶々と考えた結果、「率先して見たいわけではない」という結論に到達しました。これは意外です。あんだけ童貞丸出しだった安達が、しまむらの胸を、別にそこまで見たいわけではないと主張しているのです。
こんなふうに、しまむらの胸に飛び込んでも、いまの私なら問題ないはずだ。なにしろ私は普通だか・・・あっ、顔、胸・・・?えっ!え!?そんなはずは・・・
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」7話より
ところが、胸に飛び込むシーンの妄想を始めると様子が変わります。どうも安達は、しまむらの胸を見たいわけではないけど、胸に顔をうずめたいとは思っているようです。
胸に顔をうずめるのは、幼児が母親に甘えるときにする仕草です。つまり、少なくともこの時点だと、安達の「しまむらに対する好意の正体」は、バブみに対するオギャりなのではないかと推測できます。要するに安達はしまむらの母性に惹かれているのです。性欲のようなものは、無いと言えば流石にウソになるんでしょうけど、どちらかといえば二の次のようです。たしかに安達は、頭を撫でてもらうことに異常な執着があります。
サウナおばさんにネグレクト気味に育てられた安達は、母親の愛情を知りません。だから安達は、しまむらに母性を求めるのです。母親の愛情を筆頭に、安達にはいろいろなものが欠けています。どうも安達は、しまむら一人に友人と恋人と母親の役割を求めているようです。しまむらが一人いれば友人も恋人も母親も間に合いますが、しまむらが居なくなってしまったら、安達はすべてを失うことになります。
「ですから、なんとなく来てみたら、あなたがいました」
「ふーん」
「うんめー、ですね」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」7話より
安達の異常な嫉妬深さは、しまむらが居なくなったらすべてを失ってしまうという切実な事情から生まれているんだと思います。3話では、偶然(あるいは運命的に)モールで出会ってデートにくっついてきたヤシロに対して、異常な嫉妬心を見せる安達が描かれます。ヤシロなんて、ガキで宇宙人とかいう謎の存在なんだから恋愛上のライバルには絶対にならないわけで、じゃあべつに嫉妬する必要なんてないじゃん、と我々は思ってしまうんですが、安達にとってはそうは問屋が卸さないのでしょう。安達はしまむらに母性を求めているので、ヤシロのような子供こそが邪魔なのです。
しまむらの母性はどこから?
たしかに、しまむらには母性があります。タレ目であるとか、胸がそこそこデカいとか、そういうのも母性を感じさせる理由の一つなんでしょう。けど、何よりもしまむらの外見を母性的にしているのは、あの誰にでも向ける70点くらいの微笑みです。聖母を描いた絵画を見ればわかるように、母性を醸し出すためには100点のニコニコ笑顔ではいけません。70点くらいの微妙な微笑みにこそ、おれたちは母性を感じます。しまむらくらいの微妙な笑みが一番聖母っぽい塩梅なのです。
しまむらの母性は見た目だけではなく性格にも表れています。しまむらはノーと言わない女です。パンを買ってきてほしいときも、足の間に座りたいときも、クリスマスにデートをしてほしいときも、しまむらはノーと言った試しがありません。何をお願いしても、70点くらいの微妙な笑顔で「ふむ」「まぁ、いっか」「いいけど」と言って受け入れてくれるのがしまむらです。そりゃあ母親の愛情に飢えている安達なんてイチコロです。安達程度を惚れさせるには最初の1話があれば十分なのです。
ぶっちゃけ、アニメの初期の薄い親密度であっても、安達がしつこく頼めばデコチューくらいはしてくれそうです。何を頼んでも受け入れてくれるようなおおらかさと包容力、そして70点くらいの微妙な微笑みこそが、しまむらの母性の源泉なのです。高校生という若さにして、しまむらは何故ああいう母性的な人間になったのでしょう?
クラスが変わって、日野と永藤も居なくなって、新しい友人モドキが生まれた。まあ日野と永藤は面白いヤツだけど、クラスが変わったら積極的に遊ぶほどの仲でもないと思う。
こう振り返ってみると、私は継続しない。人間関係をほとんど持ち越さない、薄情なやつなのかもしれない。
けど、私はこう考える。どこまでも共に流れて行くほど、強い関係はめったに無い。運命の川に長く浸れば、絆もふやけて、千切れてゆくものだと
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」10話より
自分で言ってるように、しまむらは実際、メッチャ薄情なヤツです。一見すると母性的で面倒見が良いように思えても、根っこの部分では他人に興味がありません。それでいて、恐らくですがしまむらは「人付き合いは苦手だけど、とはいえ学校生活を快適に送るためにはクラスに2,3人の友人が必要だな」みたいなことを冷静に考えながら生きているタイプの人間です。おれがそういう人間なので、気持ちはよくわかります。実はおれはしまむらそのものみたいな性格をしているので、しまむらの考えていることは完全に全て100パーセント理解できます。おれはそういう謎の特殊能力を持って生まれてきていて、だからこういう記事を書いています。
安達とは何年ぐらい一緒に居られるんだろう。高校卒業まで?いや、進級して別のクラスになったら、そこで途切れることだって・・・
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」7話より
やはり、しまむらは薄情なやつです。いつか安達とショッピングモールに行ったときも、来たるバレンタインを前にしてウキウキの安達の横で、こんなとんでもないことを考えていました。恐ろしいヤツです。念能力で言えばたぶん変化系ですね。
「どこまでも共に流れていくほど、強い関係はめったに無い」と、しまむらは考えています。たしかに、現実世界に存在する人間関係の多くは、わりとクソしょうもないことで終焉を迎えます。アニメや漫画で美しく語られるような強い友情や深い愛情は、現実では、クラス替え、卒業、転勤、些細な喧嘩、些細な違和感、その程度のもので、あっと言う間に崩れ去ります。樽見としまむらは、特に大喧嘩をしたわけでも、お互いを嫌いになったわけでも、どちらかが北海道とかに引っ越してしまったわけでもないのに、何故か疎遠になってしまいました。そういう体験をしているしまむらは、人間と人間の絆の弱さを良く理解しているんでしょう。
だから、しまむらは他人に深く関わろうとしません。簡単に壊れてしまうものに心血を注ぐのは面倒だからです。かといって、しまむらは一人で生きていけるほど強い人間でもありません。学校生活を快適に送るためには、クラスに2,3人の友人が必要です。だからしまむらは、薄い人間関係を維持することに努めます。
しまむらが常に70点くらいの微笑みをしているのは、薄い人間関係を波風立てずに維持するためです。100点の笑顔をしていたら深い人間関係が発生してしまうかもしれませんし、逆に0点の仏頂面では友人が1人もできないでしょう。
また、しまむらが他人の頼みを断らないのは、断ればもっと面倒なことになって、人間関係の深みにはまってしまうことを知っているからです。
つまり、しまむらの母性の源である70点の笑顔と他人の頼みを断らない性格は、深い人間関係を避けるための防御反応なのです。しまむらは、人間関係に対する諦めの気持ちを抱えながら生きています。おれがそういう人間なので、気持ちは良くわかります。
こうして見てみると、安達は闇が深いですけど、しまむらもしまむらで闇が深いっぽいですね。
過去を紡ぐ茨 オールドローズ
ここまで、安達の行動力がすごいぞ、という話をしてきました。でも、別におれは、しょうもない自己啓発書のように「行動力さえあれば人生すべて上手くいく」などと言うつもりは一切ありません。
行動力だけで「人生すべて上手くいく」とか、そんなわけはないです。この世界はもっと複雑に出来ていて、健康とか、実家の経済力とか、運とか、そういうものが無いと上手く行かない場面はいくらでもあります。ところが、しまむらルートの攻略に関しては、完全に行動力だけがモノを言います。というのも、しまむらに唯一足りないのが行動力だからです。
安達は日常を走る流れの中から、踏み出そうとしている。踏み出す方向は、なぜかいつも私を向いている気がしてならないけど、その決意とか覚悟は、大したものだなあと感心してしまうのだ。だから私は―――
「いいよ。今年はバレンタインやっちゃおうか」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」7話より
しまむらにもうちょっと行動力があれば、樽見としまむらは疎遠にならなくて済んだはずです。クラスが変わっても、気にせずにグイグイ会いに行けばいいのです。安達だったらそうします。
猫っぽい性格のしまむらにとって、犬っぽい安達の姿から学ぶべきことはたくさんあります。例えばそれは、真っすぐで行動的な部分です。安達のそういうところにしまむらは少しずつ惹かれていて、安達を参考にして薄情な自分の性格に向き合おうとしています。
煮え切らないものがある。ハッキリしないものがある。そういうとき、どうすればいいか
「んー。むむむむ・・・。たるちゃーん。たるちゃーんって言ってんだろうがよー!またなー!」
私は、今を捨てられない。簡単に人は、自分を変えられない。私の過去は、茨で繋がっているから。触れると、あのころの未熟な自分に傷つけられてしまう。それでも、茨に手を伸ばしてみたくなることはある。トゲが刺さり、血を流すことになっても。
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」9話より
バレンタインの前日、樽見との気まずい浮気デートを終えて、薄情な自分の性格に嫌気がさしたしまむらは、樽見に「たるちゃん」と昔のあだ名で呼びかけます。そして次のシーンでは、返す刀で安達に電光掲示板のメッセージを贈ります。樽見との関係をキープしつつ安達にもちょっかいを出すのは、正直言ってコイツ何考えとんねん、と思わざるを得ないんですが、薄情な自分の性格を変えようとしているのはわかります。
現在と過去は茨で繋がっています。誰しも、過去から現在に伸びる茨に傷つきながら生きています。茨の根っこは、現在よりずっと過去の、失敗経験とかトラウマとかコンプレックスとか挫折体験とか後悔とか、そういうものに繋がっていて、いろいろな箇所で複雑に絡み合っています。しまむらの茨は、樽見と疎遠になった頃の過去から現在まで伸びているようです。
現在をなんとかしたいのであれば、絡まった「過去を紡ぐ茨」に手を伸ばして、少しずつ解いていくしかありません。トゲが刺さってケガをするかもしれないし、もしかすると解いているうちに茨は元よりも複雑に絡まってしまうかもしれないけど、それでも解こうとするしかないのです。
君に会えた日
「喜んでるならさあ。喜んでるなら、そうですって言って欲しいのよね」
「娘のこと?」
「そう。どこへ連れて行っても引っ込んでばかりで、楽しいのか不満なのかもわからない」
「いくつの話?」
「5歳かな。あ、4歳かも」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」4話より
サウナおばさんが言うには、安達は感情表現がとても苦手な子供だったらしいです。4歳の子供に「喜んでるなら、そうですって言ってほしい」などと無茶振りするサウナおばさんには、個人的にかなりムカつきます。けど、なにをしてやっても喜ぶ素振りを見せない人間に愛情を注ぎ続けるのはしんどいだろうな、とも思います。いや、サウナでととのってるヒマがあったら、はよ帰って娘の話を聞いてやったり、褒めてやったり、叱ってやったりしてやれよ、と思いますけど、とはいえサウナおばさんにもいろいろ事情があったのは理解できます。人間にはいろいろ事情があるものです。
ともかく安達は、感情表現がヘタなせいで、4歳という幼さにしてサウナおばさんに愛想を尽かされてしまいました。もちろん4歳の安達に責任があったわけではありません。ありませんが、だからといって今更どっかの誰かが高校生の安達をどうにかしてくれるわけではありません。自分の過去に向き合えるのは自分だけなのです。
安達の「過去を紡ぐ茨」は、悲惨なことに4歳の頃まで繋がっています。しまむらが現在を改善するために「過去を紡ぐ茨」と向き合っているのと同じように安達も自分の茨と向き合いたいのであれば、感情表現のヘタさをなんとかするのが最も手っ取り早い方法です。安達は、昔から感情表現がヘタだから不幸なのです。
といってもおれたちは、高校生の安達が、実はとても感情豊かなオモシロ人間であることをよく知っています。安達の感情表現が上手くなったのは、安達がしまむらに会えたからです。しまむらの前では、安達は自分の感情をあまり隠そうとしません。しまむらにはすべてを受け入れてくれる母性があるからです。そして、しまむらに母性があるのは、しまむらの「過去を紡ぐ茨」によって生まれた、人間関係に対する諦観のおかげです。
一方でしまむらは、安達の行動的な部分に少しずつ惹かれていっています。安達に行動力があるのは、安達がしまむらと一緒に居ることでしか幸福を得られない人間だからです。つまり、安達の行動力は、サウナおばさんにネグレクト気味に育てられた4歳の頃まで伸びる茨によって生まれています。
しまむらは茨によって作られた安達の性格に惹かれています。そして安達は茨によって作られたしまむらの性格に惹かれています。しまむらは安達に感化されて若干行動的になり、安達はしまむらのおかげで感情をいくらか表に出すようになりました。まるで過去から現在に伸びる二人の「茨」が複雑に絡まってしまったかのように、二人は影響を与えあっています。
安達もしまむらも闇が深い、なんて話をしましたが、冷静に考えると、闇が深くない人間など居ません。安達にも、しまむらにも、おれたちにも、過去に伸びている茨が等しく存在します。親友といつのまにか疎遠になってしまった苦い思い出とか、親に腫れ物扱いされて育った無限の悲しみとか、そういう厄介な茨は過去から生えていて、現在の自分を執拗に傷つけます。誰だって、過去の自分に影響を受けて生きています。おれたちが何かに悩むとき、その原因はほとんどの場合、過去の自分まで繋がっています。あのときもっと勉強をしていれば、あのときコクっておけば、あのときリボ払いをしなければ。あの過去さえ無ければ、現在の悩みも存在しなかったはずです。そういう後悔は、時間を超えて現在の自分を傷つけています。過去を紡ぐ茨は誰にでもあるのです。
自分の周りにまとわり付く茨をよく見ていると、ときどき、近くにいる他人の茨と自分の茨がしつこく絡み合って、ほどけなくなっていることに気づきます。それはちょうど、安達としまむらが「過去を紡ぐ茨」によって形成された性格にお互いに惹かれ合ったり、影響を与えあったりして、気づけば離れがたい存在になっているのと同じです。おれたちの持つ茨、つまり失敗体験とかトラウマとかコンプレックスとか挫折体験とか後悔といったものは、一見すると何の役にも立たず、ただ邪魔なだけのように見えます。けど実は、太くてしつこい茨は、「ふやけ」も「千切れ」もしないがために、めったに無い「どこまでも共に流れていくほど強い関係」を作っているのかもしれません。安達としまむらだって、どちらかが一切の過去に縛られないスカッとした人間だったら、これほどの深い関係にはならなかったでしょう。
「過去を紡ぐ茨」を持っている他人と出会って、一緒にいるうちに茨が絡み合っていつのまにか離れられなくなっていることが、おれたちには時々あります。解こうとしてトゲが刺さった手からは血が出て、茨は赤く濡れて、ほんとうに痛ましい限りです。こうなってしまうと、二人はもう、一緒に生きていくしか無いのかもしれません。ところで、過去から伸びる二人の茨が、気づけばいつのまにか複雑に絡み合って離れることができなくなってしまうようなそういう現象は、よく考えれば現実でもフィクションでも非常に頻繁に起こっていることです。よく起こるありふれた現象には名前がついていると便利です。そういう現象のことを、おれたちはなんて呼べばいいんでしょうか?
「うんめー!」
©2019 入間人間/KADOKAWA/安達としまむら製作委員会 「安達としまむら」5話より
こうでしょうか。
せろりんでした。
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