せろりんです。聖地・山梨に住むおれから見ても、ゆるキャン△はガチで素晴らしい作品です。
褒めるところを上げればキリがないんですが、何よりも素晴らしいのは、「山梨県民にとっての富士山」を完璧に表現している点です。
(ちなみに:筆者せろりんは山梨県甲府市に生まれ育ち、その後6年間北海道に住んだ後、ここ1ヶ月くらいは山梨県八王子市に住んでいる生粋の山梨県民です)
ふじさんと方向感覚
「山梨県民は場所を方角で説明しがち」という、ややマニアックな山梨県民あるあるが存在します。
たとえば道を尋ねられた山梨県民は「そこの角を南に曲がって・・・」などと説明することが多いです。他県の人だって方角を使って説明することはあるにはあると思いますが、山梨県民の場合、その頻度が尋常ではありません。
道案内だけでなく、家の中に居ても「部屋の北側にカバン置いてあるから取ってきて」などと言うことすらあります。
こうしたコミュニケーションが山梨で成立するのは、山梨県民の方角の感覚が非常にしっかりしているからです。

山梨県民の方角の感覚が優れている理由は、富士山が必ず南にあって、しかも毎日のように富士山を見ることができるからです。
人口の多くが集中する甲府盆地から見ると、富士山はだいたい南側にあらわれます。もちろん、実際には真南にあるケースのほうが稀で、地域によって富士山は南東にあったり南西にあったりもします。しかし、山梨県民にとっては南極点があるほうが南なのではなく富士山があるほうが南なので、なにも問題ありません。山梨県民は富士山を南の基準としているのです。ちなみに北は「北極点があるほう」でも「富士山があるほうの反対」でもなく、八ヶ岳があるほうです。
普段富士山を意識しながら生活しているので、山梨県民の多くは富士山が見えない日でもどちらが南なのか肌感覚でわかります。だから道案内に方角を使ってもコミュニケーションが成立するのです。
そのくらい富士山は周辺地域にとって存在感と影響力のある山で、そのくらい山梨県民は毎日富士山のことを考えながら生活しています。
ただし、ゆるキャン△の登場人物が住んでいる峡南地域については例外的に東に富士山が見えるので、富士山を南の基準にすることは流石に無いようです。ここで言いたいのは、周辺地域の人にとって富士山はそのくらい身近な山であるということです。
もう一つ付け加えると、おれは山梨県民でありながら、北とか南とか言われても正直よくわかりません。親は「部屋の南側にダンボールおいてあるから取ってきて」とか言ってくるわけですが、どっちやねんと思います。
ふじさんとふるさと

「富士山見ると、地元に帰ってきたーって感じがして、なんかほっとするんだよね」
「去年から原付で、いろんなところ行くようになったからじゃない?」
「おいおい、伊豆キャンはまだ終わりじゃねーぞ」
志摩リンの「富士山を見ると、地元に帰ってきたーって感じがして…」との感想にはとても強く共感できます。おそらく多くの山梨県民が、富士山を目の前にして同じような感想を持ったことがあるはずです。
完全に私事な自分語りで恐縮ですが、おれは18歳で北海道に引っ越してから、ずっと何かが足りないような違和感を抱えながら暮らしていました。それで、引っ越してから初めて山梨に帰省したときにようやく気づいたんですが、なんと北海道には、富士山が無いのです!

どこを見ても知っている山が無い北海道の景色は、山に囲まれて育った甲府盆地の人間にとっては実に落ち着かないものです。たまに富士山っぽい山があるなと思えば、蝦夷富士(羊蹄山)などという微妙にデザインが違う山だったりするのが北海道の辛いところです(念の為に言っておくと、羊蹄山はたいへん美しく、また登っても楽しい山です)。
県外に出た山梨県民が「富士山が無いからどっちが南なのかわからない」と思うのも、山梨県民あるあるらしいです。富士山が見えず、ついでに八ヶ岳も、南アルプスも見えない県外の景色は、甲府盆地に暮らしている人からすると異常なのです。

「一人で走るからなのか それとも夜の景色がそう思わせるのか 少し寂しい でもほどよい疲れと家に近づく安心感 この感じ すごく好きだな。
戻ってきた・・・」
久しぶりに山梨に帰ってきて見る富士山は、山梨県民にとって、本当に安心感のあるものです。志摩リンはそういうことを言っていて、ゆるキャン△はそういうことを表現しているのです。
ところで話は変わりますが「日本で一番高い山は誰でも知っているけど、2位の山は誰も知らない。このことからわかるようにこの世では1位以外には価値がない」などという定番のフレーズが存在します。誰が言い出したのかは知りませんが、これを言う人は富士山の本当の偉大さを理解していません。富士山が偉大な理由は、標高の数字が日本で一番大きいから、などと言うしょうもないモノではありません。
そもそも前提として、何かのランキングで1位になったからといって知名度も自動的に1位になるわけではありません。山の標高に限った話をするとしても反例はいくらでもあります。たとえば東京で一番標高が高い雲取山(2017m)のことを知っている人は多くありませんが、高尾山(599m)は有名です。ヨーロッパで有名な山は、ヨーロッパ最高峰のエルブルス山(5642m)よりもマッターホルン(4478m)やモンブラン(4810m)でしょう。標高で1位をとったところで、大して有名になるわけではないのです。
富士山が日本一有名な山になったのは、富士山が首都を含む人口の多い地域に同じ印象を与え続けているからです。まず、富士山は単独峰なので、周囲に視界を遮る高い山がありません。さらに、富士山は円錐形なのでどこから見てもおおよそ同じ形状に見えます。その上で富士山は、4000万人の人口を擁する首都圏に位置します。富士山は、どこから見ても同じ形を、しかも非常に多くの人々に見せ続けているのです。志摩リンが伊豆にいながら「富士山を見ると帰ってきたーって感じがする」と言っているように、富士山の本当の偉大さは、周辺地域の全員に同じ印象――郷愁――を与え続けている点にあります。

もし突如として国内2位・北岳(3193m)が今の位置・今の形状のまま3777mまで隆起して、富士山が日本2位の山に転落したとしても、富士山の知名度が「誰も知らない」レベルまで落ちることは永遠に無いでしょう。北岳は南アルプス山脈の一つのピークでしかないので、今より多少標高が高くなったところであまり目立ちません。さらに北岳は、円錐形ではないので見る場所に依存して山の見た目が大きく変化します。ある日突然北岳の標高が3777mになったところで、突如発生した異常な隆起現象で若干有名になることはあっても、富士山ほどには日本人に文化的・精神的影響を与えることは無いでしょう。富士山の本当の偉大さは、標高の順位の数字などではなく、日本人の多くに昔から郷愁を与え続けている点にあります。
(念の為に言っておくと、北岳はたいへん美しく、また登っても楽しい山です)
ふじさんとサプライズ
さて、ゆるキャン△が表現しているのは、最も美しい富士山です。ところで最も美しい富士山ってなんでしょう。
赤富士、ダイヤモンド富士、河口湖から見る富士山、田貫湖から見る富士山・・・。美しい富士山と言えば(ぶっちゃけ人それぞれではありますが)、いろんな候補を考えることができます。
ただ、街で食べる高級な料理よりもキャンプ場で食べるカップ麺が美味しく感じるのと同様に、富士山だって見る人の状態によって美しさが変化するはずです。そう考えると、「夜勤明けの疲れているときに見る富士山」とか、「温泉に入っているときに見る富士山」などのように、見る人のコンディションと周囲の環境によっても無数の候補を挙げることができます。
最も美しい富士山とは、どんなシチュエーションで見る富士山なのでしょうか?

「あ、雨止んでる!」
「じゃあ、本物の富士山見に行くか!」
「やっぱり今日は見えんか~」
「大体あのへんだよな」
「せやな」
「あそこだね」
山梨県民の、特に富士山が見える地域に暮らしている人は、日常生活の中において意識の一部で富士山のことを考えながら生活しています。「このへんからだと富士山はあっちに見えるだろうな」とか、「今日は曇ってるから見えないかもな」とか、「このへんの地域だと山に遮られて富士山は見えないだろうな」とか、そんなことを意識の一部のコンマ数%程度を使って考えながら生活しています。
上記の「雨が止んだから富士山が見えるかもしれない」「やはり想像通り今日の空模様だと見えない」「仮に見えるとしたらあのへんだろう」「せやな」というような趣旨のハイコンテクストな会話がすんなりと成立するのは、彼女達が常に意識の一部で富士山のことを考えながら生活しているからです。

「もとすこのふじさんは千円札の絵にもなってる!! ってお姉ちゃんに聞いて長い坂登ってきたのに 曇ってて全然見えないんだもん 聞いてよ奥さん!」
「見えないって あれが?」
「え?」
「あれ」
「あれ?」
さてここで本編を見てみましょう。リンとなでしこが出会ったこの日、昼間は雲に隠れて富士山が見えませんでした。志摩リンも各務原なでしこも「今日は見えないだろうな」とあきらめモードだったわけです。

「みえた・・・ ふじさん・・・・・・」
ところが夜になってからふと見上げると、そこには見えるはずの無い富士山が姿を現しています。
このとき最も美しい富士山を目にした志摩リンは、いたずらっぽく「見えないって あれが?」と言って、なでしこにも同じものを見せました。このとき見た富士山がきっかけで各務原なでしこはキャンプを始め、ゆるキャン△という物語は幕をあけます。
最も美しい富士山とは、「この天気では見えないだろうな」「ここからでは見えないだろうな」と思っているときに、不意打ちのように目に入ってくる富士山――サプライズ富士山――なのです。
誕生日のサプライズが嬉しいのと同じで、富士山も、見えそうにないときに見えるから感動的に美しいのです。おれは山梨に住む家族や友人と旅行に行ったり山に登ったりすることがあります。富士山を見慣れている彼らから歓声が上がるのは、富士山が恐らく見えないであろうシーンで、突如として富士山が目に入ってきた時です。
旅行者の誰か1人が富士山に気づいたとき「見えないって あれが?」といった調子で他の人を振り向かせるのも、山梨県民あるあるの一つです。
そのへんを踏まえた上でゆるキャン△を見てみると、登場人物がサプライズ富士山に感動しているシーンはいくつかあります。その上でゆるキャン△というアニメは、画面にいきなり富士山を映す演出を巧みに使うことで、アニメを見ている我々にもサプライズ富士山の体験を与えています。

「松本市。曇っててなんも見えね―。踏んだり蹴ったり。くそう・・・
せっかく来たし、一応登っとくか。ボッチでぼっち山登り。温泉入れないし、景色も見れないし、近くでキャンプすればよかったかも」
富士山は標高が高いので長野の南側からでも見える場合があります。しかし、そこまで頻繁に遠出しないであろう当時の志摩リンは、そんなことは知らないでしょう。おまけにここまで曇っていれば、「富士山は絶対見えないだろうな」と諦めモードになっているはずです。

「頂上すぐだな。あっ・・・!なんだよ。こっちはバッチリ見えてんじゃん。綺麗だなー」
山を登ってダメ元で景色に目をやると、なんと遠くに富士山が見えました。このシーンで、志摩リンの感動と同じものを我々も体験することになります。ゆるキャンが表現しているのは、最も美しい富士山です。

「いい景色ー。
はっ!ここで見ちゃったら、キャンプ場で見下ろしたときの感動が薄れるんじゃ!
ナニモミエナイヨ~」
なでしこはこういう行動をとるのはそういうわけなんでしょう。
ふじさんとそら


山梨県民は「このへんからだと富士山はあっちに見えるだろうな」とか、「今日は曇ってるから見えないかもな」とか、「このへんの地域だと山に遮られて富士山は見えないだろうな」とか、そんなことを意識の一部で考えながら生活しています。志摩リンも、各務原なでしこも、大垣千明も、犬山あおいも、斉藤恵那も、もしかすると土岐綾乃も、いつもそんなことを考えながら生活しているはずです。きっとふじさんでつながっているのです。

「夢は今も巡りて・・・」
山梨県民の多くは、意識の一部で富士山のことを考えながら生活しています。ところで、山梨県民にとっての富士山と同じように、ついつい意識に考えてしまうようなものが、山梨以外の地域にもあるはずです。山である必要はありません。パッと思いついた雑な例ですが、東京都民にとっての電車の混み具合だったり、青森県民にとっての岩木山だったり、鹿児島県民にとっての桜島だったり、八王子市民にとってのきぬた歯科の看板だったり、地域によって色々あるでしょう。
そういえば、おれが北海道に住んでいた頃は、冬だと路面の状態をいつも気にしていました。路面が凍結したり、雪でぐちゃぐちゃになったりすると、外出がとても辛いものになります。今住んでる八王子では、雪のことを全く気にしなくて良いので非常に快適に過ごせるものの、暮らしていてなんだか少し違和感があります。
住んでいる人がついつい意識に考えてしまうような何かが、どこの地域にだってあります。自分にとっての何かがある場所のことを「ふるさと」と呼ぶのかもしれません。

「リンちゃーん!晴れてよかったねー!」
えっ!「うちの地域にはそんなの無い」って!?
いやいや!そこに住むみんながいつも気にしながら生活しているような「何か」は、どこにでも一つはあるはずです。
おれたちは誰だって天気を気にしながら生活しています。週末のキャンプ場は晴れるかな、なんて。きっと、そらでつながってるのです。
せろりんでした。
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