スローループの一番好きなところは、タイトル【スロル 感想・考察】

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「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」なんて格言があります。なるほどなるほど、言われてみれば確かにそんな気がしてきます。

この格言は、トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の書き出しの一文から来ています。ロシアの上級国民・アンナの不倫を描いた、家族とか愛とか死とか神とかをテーマにした世界的な名作ですね。

ところでおれは、うちのまいこの漫画「スローループ」がめちゃくちゃ好きです。家族とか愛とか死とか釣りとかをテーマにした世界的な名作です。

スローループのどこが好きか、と言われれば、そりゃもう、いくらでも挙げられますけど、一番はなんといってもタイトルです。

なぜ幸福な家庭は似ているのに、不幸な家庭はバラバラなのか

幸福な家庭、と言われて我々が想像する光景は、確かにどれも似通っている気がします。イメージしてみましょう。きっと、健康な両親がいて、ヤンチャすぎない子供がいて、ボロすぎない家に住んでいて、貧乏すぎなくて…なんて家を思い浮かべたんじゃないでしょうか?

一方で、不幸な家庭と言われて我々がイメージする光景は、どれもバラバラです。親がアルコール中毒だったり、家がボロすぎて雨漏りで眠れなかったり、母親が不倫の末に出ていってしまったりと、不幸の形は様々です。いったい、どうして幸福な家庭は似てるのに、不幸な家庭は似てないのでしょうか?

理由は、我々がイメージしやすいような「幸福な家庭」が、減点方式を採用しているからです。「幸福な家庭」になれるのは、健康な家族、雨漏りしない家、仲の良い両親といった、無数にある要素の全てが揃ってる家庭だけです。一方で、そのうちのどれか一つでも欠ければ、つまり減点要素が一つ以上あれば、その家はたちまち「不幸な家庭」に転落してしまうのです。そして、無数にある要素のうちのどこが減点されているかのバリエーションは無数にあるから、不幸な家庭は似ていないのです。

たしかに、親がアルコール中毒だったり、貧乏すぎてメシ抜きの日があったりするだけで、幸福な家庭は「不幸な家庭」へたちまち転落してしまう気がします。なるほど、世界的な名作文学の書き出しに使われているだけあって、真理をついている格言な気がしてきます。

アンナ・カレーニナの法則とは何か

減点が無い場合にだけ成功する一方で、一つでも減点があれば失敗してしまうから、成功は似ていて失敗はバラバラなのだ…、という考え方は、「アンナ・カレーニナの法則」という名前でウィキペディアに載ってるくらいには有名な概念です。

言われてみれば、世の中の現象は、多くが「アンナ・カレーニナの法則」に従っているように思えます。

この法則に従っていそうなもの、つまり減点方式を採用しているものといえば、たとえば旅客機です。いま空を飛んでいる旅客機、つまり成功している旅客機は、どれも似たような姿をしています。2つのまっすぐな主翼、3つの尾翼、前方の上側についているコックピットの窓。薄目で見ればどの機体もまったく同じに見えます。

軍用機にはオスプレイからB-2まで様々なバリエーションがあることを考えると、旅客機にだって個性的なヤツがいてもいいような気がします。しかし、少しでも減点ポイントがあるような主流から逸脱した旅客機は、高い経済性と絶対の安全性が求められる航空業界では商業的に生き残れません。だから現役の旅客機はどれも似ているし、コンコルドのような異端は淘汰されてしまったのです。

もちろん、、世の中の全てが「アンナ・カレーニナの法則」に従うわけでもありません。軍用機もそうですけど、わかりやすいのが芸術の世界です。

ミレーの絵と、ピカソの絵と、バンクシーの絵と、うちのまいこの絵は、どれも芸術的に極めて成功していながらも、それぞれまったく違う画風です。むしろ、素人が描いた下手な絵の数々のほうが似通っているようにすら見えます。絵画の世界には、名付けて「逆アンナ・カレーニナの法則」が働いているのかもしれません。

ところで、幸福な家庭は、はたして本当に「どれも似ている」のでしょうか?つまり、アンナ・カレーニナの法則に従った、減点方式のシステムなのでしょうか?そうではない、とスローループは主張しています。

スローループの家庭はどれも似ていない

スローループで描かれる家族はどれも似ていません。親が死んでいたり、弟が死んでいたり、「知らないおばさんと暮らしている感じ」だったり、父親が釣り中毒だったりと、それぞれ違った減点要素を抱えています。一方で、スローループに登場する家庭がどれも幸福であることを疑う人はいません。そうでしょう?

スローループで描かれる家族にはどれも欠損があって、しかも欠損は非常に意識的に描かれています。わかりやすいのは吉永恋です。

©Maiko Uchino うちのまいこ『スローループ』第1巻(株式会社芳文社,2019)p.157より引用

吉永恋の家は、親が死んで悲しみに暮れていた小春やひよりの家とは対比的に、両親がどちらも揃っている幸福な家庭として登場します。一方で、吉永恋の父親の釣り中毒は、平和な作風とは不釣り合いに常識から逸脱しています。

釣りを優先して出産に立ち会わず恋が生まれて5時間経ってから病院に到着した話とか、挙げ句に”鯉”と命名しようとした話とか、幼い恋を車に放置したまま何時間も釣りをしていた話とか、コミカルには描かれていますけどドン引きですよね。しかも恋は釣り中毒の父親とバリキャリの母親にかわって幼い兄弟の面倒をみながら釣具店の店番までしているわけです。決して不幸で深刻な問題としては描かれませんけど、これヤングケアラーってやつですよね。恋自身は自分が不幸だとは思っていないようですが、置かれた状況だけを見ればグレてもおかしくないくらい過酷な環境です。

ほかにも、二葉は怠惰な姉の世話と家業の手伝いに追われていたり、藍子は中学受験のプレッシャーを感じて悩んでいたり、咲良は姉妹と仲が悪かったり、小春の祖母は娘が交通事故で死んだことを認識していなかったり、ひよりは祖父に苦手意識があったりと、スローループで描かれる家族にはどれも欠損があります。そして欠損は平和な作風とは不釣り合いに、明らかに意識的に描かれています。しかしその一方で、スローループに登場する家族は、明らかに意識的に幸福そうにも描かれているのです。

「スローループ」ってめちゃくちゃいいタイトルだぞ!

さて、「アンナ・カレーニナの法則」に従っていると思われるものがスローループには登場します。フライフィッシングです。

フライフィッシングはとにかく難しい釣りです。フライの釣り糸にはオモリがついていません。普通の釣りは、魚がいそうな場所に腕力でオモリを投げれば釣りを開始できます。しかしフライは、フライラインと呼ばれる太くて重い釣り糸をムチのように巧みに振り回して、糸の重さで遠くに疑似餌を飛ばす必要があります。これをフライキャスティングと言います。

©Maiko Uchino うちのまいこ『スローループ』第1巻(株式会社芳文社,2019)p.50より引用

フライキャスティングにおいて最も重要なのは、ラインに「タイトループ」と呼ばれるきれいな曲線をつくることです。この曲線ができないことには、針が遠くまでまっすぐ飛んでくれることはありません。おれも最近フライを始めてみたんですけど、初心者のおれにとって、タイトループをつくるのは極めて困難なことです。ラインの乱れは心の乱れです。

タイトループをつくるのは、いったいどうして難しいのでしょうか?理由は、フライキャスティングが「アンナ・カレーニナの法則」に従う、減点方式のシステムだからです。

ひよりがよくやっているフォルスキャスト(前後投げ)には様々なコツがあります。平面を意識しながら徐々に加速をつけてロッドティップを頭上に持っていき、適切な角度でロッドを完全に静止させ、適切なタイミングでロッドを徐々に加速をつけて振り下ろし、適切な角度で完全に静止させる。こうしたコツをすべて抑えたまま一定のリズムで何度も同じ動作ができれば前後投げを成功させることができます。

逆に言うと、いま並べたコツの一つでもミスるとキャスティングは失敗してしまい、タイトループは崩れ去ります。成功するキャスティングはどれも似ているけど、失敗するキャスティングはどれも似ていないのです。

考えれば考えるほど、世の中のほとんどのことは、アンナ・カレーニナの法則に従う減点方式のシステムな気がしてきます。おお、なんと息苦しい世の中なのでしょうか?しかしどうでしょう。小春はキャスティングが上手くありません。あるいは、ひよりはエサ釣りに使う虫を触ることができません。しかし二人は、いつだって釣りを楽しんでいます。

海凪家は寄せ集めの不完全な家族です。「幸せな家庭」が減点方式なのだとすれば、この家族には減点する箇所がいくらでもあります。しかし、この漫画を読めばわかるように、完璧なループが発生しないからといって釣りが楽しめないことなんてことはありません。この漫画の名前はスローループ、タイトループの反対なんだそうです。

せろりんでした。

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今回の記事は↑この長過ぎる感想記事でしている話の一部に加筆をしてコンパクトな1本の記事にまとめたものです。↑この記事は1.6万文字もあって異常に長く、誰が読むんだよという感じなんですけど我こそはという人は読んでみてください。

ほかにもスローループの感想記事をたくさん書いています。

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