この映画は蛇足を愛してる感じがする。なによりもおれはそこが好きだ。
まず、この映画自体が竹取物語の壮大な蛇足だ。その上で、作中には終わる終わる詐欺が何度もある。最初に、かぐやが月に連れていかれるところで例のネトフリ終了詐欺があり、ヤッチョの正体がわかって「再会」するところでも終わった感があり、最後に本物のエンドロールが流れた後に自他ともに認める本当の蛇足がある。さらに、rayのMVで後日談としてタケノコを埋めるというガチの蛇足も存在する。
作品中には、この部分は無くても別に成立するな、と思える要素がいくつも存在する。超かぐや姫!は2時間半くらいあって、映画館で一気に見るにはかなり長めのアニメ映画だ。普通だったら、もうちょっと要素を減らして、シュッとした密度の高い映画にしよう、と思うだろう。
たとえば育児パートとか、ブラックオニキスと謎のゲームをやるパートとか、引っ越しパートとか、何回か行われるしっかりとしたライブシーンとか、フシに注入される8000年分の回想とか、カニをビビらせるシーンとか。削るとテイストは変わってしまうだろうが、無いなら無いで話として普通に成立しそうではある。
もちろん、蛇足的な要素があるから悪いと言いたいわけではない。むしろ良い。どのシーンも退屈せずに見られるのは、いろんな蛇足が、それぞれ鮮やかに彩られているからだ。8000年分の回想と、謎のゲームのアクションシーンと、ライブシーンとには、それぞれまったく違う魅力があって飽きることがない。
今時は何もかものスピードが速い。だから最近のアニメは、全てのセリフと全ての眼差しに意味をもたせるような密度の高い作品が多い。作品をシュッとさせるために萌えっぽい描写を削ることもある。そういう作品のことが嫌いなわけではないし、そういう作品のほうが実のところエキサイティングなのだが、おれは蛇足感のある緩慢なアニメが好きだ。蛇足感があるアニメには味があり、そして温度がある。もちろん、超かぐや姫!も、今時っぽい極めて密度の高い作品ではある。しかし、同時に、確かに蛇足の多いアニメでもある。蛇足に彩りを持たせることによって、蛇足と密度を両立しているのだ。

そこいらんだろ、と思う蛇足的なセリフも数多く存在する。最後に「あなたの物語もそうでしょ」と急にこっちを向いてくるあたりなんかは、おれは好きだけど、かなり好みが分かれそうだ。
おれが好きな蛇足セリフと言えば、「極上のワインは時間が経つほど深まる。悪いことばかりじゃないさ」だ。このセリフはものすごく蛇足だ。8000年の時をワインに喩えているわけだが、そんなダサい比喩で説明されなくても、おれたちは8000年の重みと尊さをなんとなくわかっている。どう考えても説明的すぎるセリフだ。
ワインに例えるのはキザすぎる割に表現としては古臭くて手垢がついているし、彩葉との再会を謎のおじさん1が極上のワインに喩えているのもなんとなくキモくて嫌だ。はっきり言って、物語の中で浮いた、異常な存在感を持つセリフだと思う。しかしおれは、このセリフが割と好きだ。
「ダイナミックコード」という有名なアニメに似たようなセリフがある。例の「いろんな土壌と環境で、あなた達だけの音楽が生み出されてるんでしょ?」というセリフだ。このセリフは伝説的な珍セリフとしてネットミームになっているから、知っている人も多いんじゃないかと思う。ダイナミックコードを知ってる人はみんな連想したはずだ。
このセリフを言ったのはワイン農場の半モブのオッサンで、主人公たちはぶどう狩りに来たミュージシャンだ。このセリフは半モブのオッサンがボソッと口にしたちょっとしたセリフでしかないのに、大きなライブのラストなど、作中の重要な回想で何度も登場する。その破綻してる感じがするおかしさが理由で珍セリフとしてネットミームになっているわけだが、おれはシンプルにとても良いセリフだと思っている。このセリフには、通常では考えられないような、物々しさというか、存在感というか、唐突感というか、とにかくそのようなパワーがある。「言霊」というものが存在するのだとすれば、こういうセリフに宿るんだと思う。
ワイン農場のようなちょっとした日常の中で偶然出会ったフレーズが、あとになって思い返すと自分の状況や世界の真理を妙に言い当てているように感じられる……そういうのは、たまにあることだ。アニメだとなかなか珍しいが、小説だとよくある表現だと思う。真理というのは、ヤチヨがそうであったように、ずっと昔から何らかの形で、しかも身近なところに存在しているものだ。
そういうわけで、極上のワインは…というセリフのことを、おれは最初、ひどくセンスの無い蛇足的セリフだと思っていた。しかしおれは、この物々しいセリフを、思い返す度に少しずつ好きになってきた。このセリフには、味があり、そして温度がある。このアニメで二番目に好きなセリフだ。
「窓から彩葉たちの世界を見たら、みんな好き勝手動いてて、複雑で、一回きりで、自由に見えた。でも、みんな押さえてもいるんだよね。自分の気持ち。もっと大事なもののために」
世界には、蛇足的なアニメと、そうでないアニメとが存在する。地球人的なアニメと、月人的なアニメと言い換えてもいい。
作中では、月はおもしろいことが一つも起こらない退屈な世界として語られる。毎日が繰り返しで、人々は歯車みたいに生きている。全員がシステムの一部として働いていて、遊ぶなどという発想はそもそも存在しない。もちろんそれは、月に敵対するかぐやの言い分だ。
月のような社会にも良いところがある。月は戦争に強い。彩葉たちは月人に対して手も足も出なかった。作中の描写から判断するに、たぶん月人はデジタル生命体だ。だからデジタル戦争にめちゃくちゃ強いし、だからかぐやは地球に来たばかりなのに高度なプログラミングができた。かぐやは謎のテクノロジーで隕石として地球にやってきて電線と電柱を依り代に肉体を得たが、他の月人にはたぶん肉体らしい肉体がない。だから味も温度も必要ないのだ。
デジタル生命体と言えど、物理的な実体は必要だ。月人の本体は、おれの推測では、おそらくUSBメモリみたいなものだろう。タケノコを水槽に浸けていたようなノリで、USBメモリが月の大深度の地下にでも保管されているのだろう(そうでなければアポロ11号が月人を発見しているはずだ)。
この考察が正しければ、月と地球は生活様式が違いすぎるので物理的な戦争は起こりそうにない。しかし、仮に戦争をしたとしても、タイムマシンがあるような文明と地球では勝負にならないだろう。世の中には月人的なものと地球人的なものが存在するわけだが、必ずしもどちらが良いという話ではない。例えば戦争に勝ちたいなら月人的システムのほうが良いし、地球でも実際に軍隊はそういうふうにできている。あるいは、東京大学に行きたいなら、受験戦争に勝つためにきっと月人式で勉強したほうがいいだろう。月人式も悪いことばかりじゃない。しかしこのアニメで、かぐやは最終的に地球で生きることを選ぶ。
「こういうのは最初から誰になるのか大体決まってんの!」
月に居ながら地球に憧れたかぐやは、最も地球的な月人だ。一方で彩葉は、最も月人的な地球人として描かれる。エリートは遊びもおろそかにしないという「お母さん語録」に由来する倒錯した行動も含めて、彩葉の努力の全ては、母親に認められるために行っているものだ。母親に認められて何がしたいのかと言えば、要するに彩葉は父親が遺してくれた家族というシステムを取り戻したいのだ。
だから初期のかぐやは「月への強制送還」という竹取物語に記述された予定調和のシステマティックなエンディングに拒否感を示すし、初期の彩葉は絵本のバッドエンドを誰かが既に決定したシステムとして受け入れようとする。
二人はお互いに影響を受けることで、中盤には立場がすれ違う。つまり、かぐやはシステムを受け入れる月人的月人になり、彩葉はシステムに抗おうとするよう地球人的地球人になる。このアニメで一番好きなセリフは、彩葉たちが月人と戦うために集合したときのかぐやのセリフだ。「みんな、自由だ」
彩葉は最終的に、しこたま努力をして、入るのが難しい大学に入って、最終的にロボットの研究者になる。その手段は月人的に見えるかもしれないけど、すべてはかぐやに味覚を与えるという蛇足のために行われている。
超かぐや姫!は間違いなく蛇足を愛しているアニメだ。つまり、地球的なアニメだ。そこには蛇足があり、味があり、温度があり、自由がある。
ところで、このアニメを見ていておれが一番驚いたのは、作中で使われているボカロ曲が、どれも昔から存在していたという事実だ。ワールドイズマインもメルトもハッピーシンセサイザもrayも、驚くべきことに、全て何年も前から有名な名曲として存在していた!
おれはそんなに真面目にボカロを通ってきたわけではなくて、作中で流れた曲も知っていたり知らなかったりだった。作中のボカロ曲を改めて聞いてみると、「超かぐや姫!」のことを歌っているとしか思えない曲の数々に本当に驚く。真理はいつも身近なところにあるのだ。それにしても、「時々熱が出るよ 時間がある時眠るよ 夢だと解るその中で 君と会ってからまた行こう」みたいな詞を、タイムマシン無しに書くことが可能なのだろうか?本当に驚くべきことだ。
そういう曲がずっと昔から存在していたという事実によって、超かぐや姫!のSF要素に別次元の奥行きが与えられているようにすら感じる。つまり、ヤチヨは8000年前から、輪廻のシステムの中で彩葉と出会う日のためにずっと存在してきたわけだが、これと同じことが現実で起きているような気がしてくるのだ。昔からあった曲たちは、定められた輪廻として昔から用意されていたのではないか。そしてもちろん、そんなのは気のせいでしかない。気のせいでなければ、きっと映画のほうが歌詞に当て書きしているのだろう。
今は昔、ボカロは、みんなの決して美しいとは言えない青春を彩っていた。ごく一時期に、ごく有名な曲だけを聞き流していたおれは、「みんな」の中に入っているかと言われるとかなり微妙なところだ。しかし、少なくない人たちにとって、多少なりともかけがえのない青春の一部だったことは間違いない。
そしてその青春の一部は、間違いなくかけがえなかったのと同時に、ほとんどの人の人生では、蛇足としか言えないものだった。つまり、ボカロ曲は情緒的には極めて重要な存在だったかもしれないけれど、受験や就職や家事や仕事や結婚や育児や投資や介護や戦争のような、実際的なことに直接役立ちはしなかった。それどころか、何らかの黒歴史と化している人すら大勢いるだろう。ボカロ曲は全校放送で流された回数だけ黒歴史になっている、人生の蛇足だ。
おれは、その権力がなかったために全校放送でボカロを流さなかったけれど、別の形でたくさんのニコニコ動画的な黒歴史をこしらえてきた。いまでも頭を掻き毟りたくなるような、ここにはとても書けない思い出が、ここにはとても書けないほどたくさんある。
そういう、昔々から存在していた蛇足の数々によって、この映画は彩られている。極上のワインは時間が経つほど深まる。悪いことばかりじゃないさ。

この記事は劇場で2周目を見た次の日に書かれた。劇場は満員だった。イオンモールでパンケーキを食べて帰った。
結局犬DOGEってなんなんだよ。

コメント