どんなにきみがすきだかあててごらん ――アニメ「きんいろモザイク」10周年によせて(感想・考察)

アニメ

きんいろモザイクのアニメが10周年らしい。きんいろモザイクのアニメが10周年ということは、おれが日常系アニメを見るようになって10周年ということでもある。

ここで少しだけ、きんいろモザイクがどんな日常系アニメだったのか話しておいてもいいだろう。

おれ、きんいろモザイクに出会う

おれは日常系アニメが好きだ。大好きだと言っても良い。日常系アニメならたいてい見ているし、しかも何回も繰り返し見ている。

日常系アニメは日常讃歌だ。変わることの少ない毎日を何よりも重要なものと位置づけ、刺激の少ない日々を刺激の少ないままに描く。恋愛を至上のものと考える人間のアニメは恋愛アニメになるし、スポーツを至上のものと考える人間のアニメはスポーツアニメになるわけだが、日常系アニメは日常を至上のものと考える人間のアニメだ。日常系アニメは感じるままに見てもおもしろい一方で、平坦な日々を描くからこそ、ふと目を向けてみるとキャラクターの心の動きには無限の奥行きがある。おれはこのジャンルが好きだ。

おれの日常系アニメオタクとしての原点はきんいろモザイクにあると言ってよい。最初にきんいろモザイクを見たのは、10年前、17歳の頃だ。1期の放送中に、アニメが好きな友人のブログにきんモザの話が書かれていて、九条カレンとかいうキャラクターがかわいいなと思って見始めた。ご存知の通りカレンは3話まで出てこないから、起伏の少ないストーリーに若干イラつきながら無心で見たのだけど、3話まで見た頃にはすっかりハマってしまって、最新話が放送されるたびに過去の録画を1話から再生し直していた。

最初はカレンがかわいいからという、やや不純な気もする動機で見ていたのだけど、次第にキャラクターの心情や人間関係のことをよく考えるようになった。そうなってくると、必然的に猪熊陽子がかわいいからという動機で見るようになるわけだ。そうして今に至る。

そんなわけで、まず1冊900円もする原作を全巻揃えて、続いてDVD(当時すでにブルーレイが主流だったが、再生機器が家に無かった)も買った。原作4巻に載っている「マイ・ディア・ヒーロー」の話が大好きで、なんとしてもこの話をアニメ化してほしいと思ってDVDを買った記憶がある。

きんいろモザイクより前にも、おれは「みなみけ」が好きだったんだけど、当時は兄が録画していたのを見ていただけで、姿勢はかなり受け身だった。しかも、「みなみけ」は日常性よりもギャグのおもしろさを目的に見ていたし、当時は小学校6年生くらいだったから、細かいことはあまりよくわからない状態で見ていた部分もある。日常系アニメを追いかけるようになったのはきんモザを見てからだ。

おれ、日常系アニメに出会う

さて、おれが好きなのは、日常系アニメの中でも特に純度の高い日常系アニメだ。世の中の日常系アニメは、スパイスとして日常以外の要素を少しだけトッピングしているものがほとんどだ。趣味をトッピングしたもの、ファンタジー要素をトッピングしたもの、陰キャ主人公をトッピングしたもの、主人公が夢を追う姿をトッピングしたもの、強めのギャグをトッピングしたもの、などが代表だ。もちろんおれは、ゆるキャンも、ふらいんぐうぃっちも、スロウスタートも、こみっくがーるずも、帰宅部活動記録も大好きだ。いま挙げた名作の数々は、スパイスとして日常以外の要素をトッピングすることで日常の素晴らしさを強調している作品だ。しかし、日常系アニメの魅力の真髄は、トッピングがほとんど入っていないような、純粋に日常の描写だけに絞って作られたアニメにこそ描かれているとも思う。おれはそういうアニメのことをピュア日常系アニメと心のなかで勝手に呼んでいる。

もちろん、真のピュア日常系アニメは存在しない。真のピュア日常系アニメを探すのは、真のロボットアニメや真のスポーツアニメを探すのと同じくらいには意味の無いことだ。それでも、限りなくピュアに寄った日常系アニメが少ないながらも存在するのも事実だ。きんいろモザイクはどうだろうか?

おれとしては、きんいろモザイクはそれなりにピュアに寄った日常系アニメだと思う。イギリスからの留学生と通訳者志望の高校生の交流を描いている点はややスパイシーだが、彼女たちの異文化交流はそれほど重大なこととしては描かれない。日本とイギリスの文化の違いは作中で度々取り上げられるが、そういう文化の違いを彼女たちは他人事のように話す。彼女たちの中では、異文化交流はもはや日常の光景となっていて、非日常的なスパイスとして描かれることはほとんど無いのだ。

今になって思うと、きんいろモザイクが始まった2013年という年は日常系アニメがあまりにも多い。異常と言ってもいい数だ。「GJ部」「みなみけ ただいま」「あいうら」「ヤマノススメ」「ゆゆ式」「帰宅部活動記録」「たまゆら もあぐれっしぶ」「のんのんびより」と、パッと目につくだけでも名だたる名作がいくつも放送されていたことがわかる。特に驚くのは、ピュア寄りの日常系アニメの多さだ。この中にピュア寄りの日常系アニメが何作あると数えるのかは人によってかなり違うとは思うが、おれとしては、少なくとも「あいうら」「ゆゆ式」「のんのんびより」あたりはピュア寄り認定して良いんじゃないかと思う。こういうピュア寄りの日常系アニメは、最近ではかなり減ってしまった。あれから10年経った2023年には、もしかすると1本も放送されてなかったかもしれない。

とにかくおれは、そういう恵まれた時代にきんモザにハマって、この10年くらい日常系アニメを見続けてきた。おれは気に入ったアニメを何回も繰り返し見る癖があるから、かなりの時間、日常系アニメを見てきたことになる。ガールフレンド(仮)とか、ゆゆ式とか、ふらいんぐうぃっちとか、ゆるキャンとか、スロウスタートとか、そういうアニメを5回とか10回とか見て過ごした10年だった。

日常系アニメのハッピーエンドとは何か

さて、完結まで描かれる日常系アニメは少ない。日常系アニメはよほど人気が出ないと2期が作られないし、逆に2期が作られるような人気アニメは原作が長寿化する傾向があるからだと思う。とはいえ、これは決して悪いことではない。日常系アニメは終わらないほうが嬉しいからだ。

一方で、きんいろモザイクは完結編がアニメ化された珍しい例だ。高校生のおれがなけなしの金でDVDを買った甲斐もあったのかもしれない。

ところで、最も美しい日常系アニメの終わり方とは、どのようなものだろうか。言い換えると、日常系アニメのハッピーエンドとはどのようなものだろうか?日常系アニメはどのように終わるべきなのだろうか?おれはこの質問の答えを知っている。そしてきんいろモザイクは、作品を通してこの質問の答えを示している。日常系アニメのハッピーエンドとは、何があっても日常を続けることなのだ。

日常系アニメの最終回は、ふつう卒業によって締めくくられる。たいていの場合、卒業は別れだ。登場人物はそれぞれ別の夢に向かって別の進路を歩むことになる。楽しい日常は終りを迎え、最終回では別の目標に向かって各々が歩きだす姿が感傷的に描かれる。卒業後にも会うことはあるだろうが、今まで通りの日常は変わってしまうだろう…。こういう展開は、たしかに感動的ではあるのだが、よく考えてみてほしい。こんなのはどう解釈してもバッドエンドだ。バッドエンドだからといって駄作というわけでは断じて無いし、完結編以外の部分で描かれた日常が嘘だったことには決してならないのだけど、少し悲しいのも事実だ。

日常系アニメは、日常を他の何よりも素晴らしいものと位置づけているアニメだ。夢を追うことは人生の中でそれなりに重要なことかもしれないけど、日常系アニメが重要視しているものではない。これまで続けてきた日常以外のものを最終回で選んでしまう展開はバッドエンドでしかない。夢は日常の敵なのだ。日常系アニメの最終話で日常をやめてしまうのは、たとえば釣りアニメの最終話で釣りをやめてしまうのと同じくらいには悲しいことだ。

「終わってしまうから素晴らしい」「限りがあるから美しい」といった手垢の付いた表現がそのまま反論として使えるような気がするかもしれないが、そういう意見はまったく論理的ではない。桜や花火のような終わってしまう美もあるが、ダイヤモンドや海や円周率が見せるような不変の美だって美しいはずだ。そもそも、桜や花火の美は、来年も見れることを知っているからこそ生まれる不変の美だ。桜が今年限りで絶滅してしまうと知っていたら、桜が散る姿はグロテスクにうつるだろう。終わるからこそ美しいなどと口にする人は、終わりを受け入れないといけない運命が存在しているから仕方なくそう思っているだけだ。終わりなんていうものは、無いほうが美しいに決まっている。

だから、日常系アニメのキャラクターは、運命に抗ってでも、素晴らしかった日常の続きを卒業した後も行うべきだ。方法はいろいろある。全員で同じ大学に行くことで日常を4年間延長するのが定番の流れだ。ほかにも、全員でテストをバックれて留年してもう1年高校に通うとか、全員で同じ部屋に住むとか、全員で退学届を出して別の学校に入学しなおすとか、神秘の力に頼るとか。最終回の後も離れ離れにならない方法は、実現しやすいものからそうではない過激なものまで、いろいろ思いつく。

もちろん、思いつくだけであって、現実には様々な事情があるから、そうたやすくは行かないだろう。そんな展開にはリアリティが無いからアニメで描くのは難しいのもわかる。だからこそ、ハッピーエンドをうまくリアリティと両立させることがアニメとしての腕の見せ所だとも思う。なにより、フィクションの中なのだから、リアリティなどというちっぽけな道理は捻じ曲げてもバチは当たらないだろう。

スタァライトというアニメには、時間を巻き戻す神秘の力を使って同じ日々を何回も繰り返しては、変わらない学校生活を一人で何度も楽しむ人物が出てくる。スタァライトは日常系アニメではないから、そのキャラクターは最終的に成敗されてしまう。ファンの間でも、どちらかというと共感しにくい狂気の人間として見られているキャラだと思う。しかしおれには、彼女の気持ちがけっこう良くわかるつもりだ。おれは同じ日常系アニメを5回でも10回でも繰り返し見るのが好きなのだ。

自分のやりたいことよりも皆で一緒に居ることを優先するような終わり方をしたアニメとしておれが好きなのは2019年の「バミューダトライアングル ~カラフル・パストラーレ~」だ。このアニメの最終話は、村から都会に出てアイドルになりたいと願う1人の少女のために、残りの4人がまったく覚悟を持たないまま、ずっと5人いっしょに居たいというだけの理由で一緒に都会に出てアイドルを目指す展開を描く。アイドルアニメで壮大に描かれるアイドルという夢は、彼女達にとって、5人いっしょにいるための手段でしかないのだ。なんと美しい最終回だろう!日常系アニメの最終話は、ほかの全てを犠牲にしてでも、楽しかった日常の延長戦をやるために闘争するべきなのだ。

極端すぎる考え方だと、あなたは思うだろうか。たしかに自分で主張していても極端な過激思想だと思う。しかし、この極端な過激思想を持っている人間を、おれたちは一人知っているはずだ。小路綾である。

きんいろモザイク Pretty Daysは神アニメ

きんいろモザイク Pretty Daysより/(c)原悠衣・芳文社/きんいろモザイク Pretty Days製作委員会

「水蓮女学院!?」
「うるわしい響きです。初めて聞きました」
「って、しの知らないの!?さすがに私も聞いたことあるよ。有名なお嬢様学校」
「かわいい制服ですね~」
「親も先生もそこがいいんじゃないかって。成績的にもすこし頑張れば・・・」

きんいろモザイク Pretty Daysは綾たちの高校受験の話だ。忍と陽子は(おなじみの)県立もえぎ高校を受験する一方で、綾は更に難関の水蓮女学院を第一志望にしていた。県立もえぎ高校もそれなりに偏差値の高い進学校のようだが、水蓮女学院はそれと比較にならないくらいの難関校という設定だ。なんといっても、水蓮女学院は「わかば*ガール」の小橋若葉が不合格になっている高校だ。綾なら受かるかもしれないが、忍と陽子は逆立ちしても受からない程度の難易度として描かれる。県立もえぎ高校は綾にとって滑り止めでしかないのだ。

そうして綾は水蓮女学院に合格し、陽子と忍は県立もえぎ高校に合格したのだった。このままいけば、3人は中学卒業と同時に離れ離れになってしまう。だが、こんなのはよくある話だ。おれたちは、夢を叶えるために、あるいは人生をより良くするために、最善を尽くすべきだと親や教師や社会に言われて育ってきた。そのために綾が優先すべきことといえば、偏差値が1でも高い高校に行くことだ。なにより、綾はもう水蓮女学院に合格してしまっている。合格する前なら引き返せたかもしれないけど、苦労して合格した第一志望をいまさら蹴るのは常識的に考えれば不可能だ。忍も陽子もそのことをよく理解しているから、綾との別れを惜しみながらも、決して進路に口を出すことは無い。

きんいろモザイク Pretty Daysより/(c)原悠衣・芳文社/きんいろモザイク Pretty Days製作委員会

「綾ちゃん!?どうしてここに?」
「水蓮女学院は?」
「私も来ちゃった」
「来ちゃったって・・・」
「黙っててごめんなさい。だって言い出せなかったんだもん」
「せっかく受かった第一志望なのに?親や先生とも話し合ったって」
「うん。ちゃんと話し合って伝えたわ。私の第一志望はこの学校だって」

ところが入学式の日、綾は県立もえぎ高校の入学式に姿をあらわしたのだった。いくらか偏差値の高い学校に行くよりも、楽しかった日常の延長戦をやることのほうが大切だと綾は気づいたのだ。なんとすばらしい話だろうか!おれはこの映画が大好きだ。

この映画で綾の中に降りてきた思想は、短い映画の中で何度も強調されている。エンディング曲「Starring!!」を聴いてみよう。

いつも隣で笑ってたいよね
皆の事が大好きだから
ささやかな 願い 見つけた
ずっと幸せな時間を…

作詞:yuiko  Starring!!より

歌いだしの部分は、小路綾が独唱する印象的なパートだ。「大好き」な「皆」と「ずっと」「幸せな時間」を過ごすことこそが「願い」だと綾は歌っている。綾が望むものは、中学の3年間とか、高校の3年間とか、そういう小さなスケールではなく、「ずっと」なのだ。

さらに、この映画は綾のモノローグで幕を閉じる。

「最近、思うことがある。小さい頃からの幼馴染じゃなくても、きれいな金髪じゃなくても、忍とわたしは友達。これからも、ずっと!」

きんいろモザイク Pretty Daysは表面的には文化祭を描いているのだけど、実際のところは、楽しかった日常の延長戦を「ずっと」続けるためであれば他のものを犠牲にしても構わないと考える綾の思想と覚悟を描いているのだ。

よく考えてみると、きんいろモザイクというアニメ自体が、楽しかった日常の延長戦を続けようとするキャラクターの行動によって成立している話だ。アリスは忍に会うために日本語を完璧に覚え、日本に留学に来た。そしてカレンは、アリスを追いかけるためだけに県立もえぎ高校に転校してきた。おれが好きなハロモザ7話「マイ・ディア・ヒーロー」もそういう話だ。きんいろモザイクは、一緒にいたい人と一緒にいるために進路を捻じ曲げる人達を描いている作品なのだ。

きんいろモザイク Thank You!!は神アニメ

一方、完結編のきんいろモザイク Thank You!!では大学受験が描かれる。Pretty Daysの超展開と比べて、Thank you!!で描かれる進路は実にすんなりと決まるし、超展開でもない。

アリスはイギリスに戻り、忍はアリスを追いかける形でイギリス留学を目指す。綾と陽子は国内の同じ女子大を目指す。カレンはイギリスに帰るか日本に残るかで悩むが、最終的に日本国内の大学から志望校を選ぶ。その大学は、偶然にも綾と陽子が志望している女子大だった。

これはいったいどうしたことだろう。友人達と一緒にいることにあれほどこだわっていた綾や、アリスや、カレンは、完結編ではこんなにもあっさりと別々の進路を選んでいる。Pretty Daysの頃の綾なら、陽子とカレンも誘って5人全員でイギリスに留学しよう、と言い出すはずだ。この3年間で何が起きたのだろうか?ここで、カレンが日本に残ることを決意したシーンを見てみよう。

きんいろモザイク Thank you!!より/(c)原悠衣・芳文社/劇場版きんいろモザイクThank you!!製作委員会

「いつもなら、アリスがイギリス帰るって言うなら、私もついていくって言ってたと思うデス。でも私、日本での生活楽しくて、まだもう少し日本でしか出来ないことやりたいのデス。アリスも好きですが、日本も好き。私はどうしたら・・・」

「(国と天秤にかけられてる…)カレンは、カレンのやりたいことをしてほしいな。それに、日本とイギリスって、思ってるほど遠くないんだよ」

アリスが言うには、「日本とイギリスは思ってるほど遠くない」のだそうだ。彼女達は、Pretty Daysからの3年間で、日本とイギリスの距離が”思ってるほど遠くない”ことを知った。日常の延長戦はどこにいてもできると、高校3年生の彼女達は知っていたのだ。

Pretty DaysとThank You!!は、どちらも受験を描いた映画だ。その結末は対称的に描かれる。Pretty Daysでは全員一緒の進路を無理やり選択したが、Thank You!!では自然に別の進路を選ぶ。この2作の間にある違いはただ一つ、彼女達が過ごした3年間の日常の積み重ねだけだ。彼女達は、日本とイギリスが何によっても隔たれていないことを3年間の間に知った。その気にさえなれば、同じ学校でなくても、同じ国でなくても、日常の延長戦は変わらずにできることを彼女たちは3年の間に知ったのだ。

きんいろモザイク Thank you!!より/(c)原悠衣・芳文社/劇場版きんいろモザイクThank you!!製作委員会

「夕方に着くんじゃなかったの?」
「思ったより早く着いちゃって」
「いやーイギリスと日本って近いんだな!」
「飛行機でほとんど寝てたからでしょう!」

日本とイギリスの隔たりの無さは、この映画だけを見ても、様々な形で何度も言及される。イギリスに引っ越した忍とアリスのもとにさっそく遊びに来た陽子たちはこんなふうに話しているわけだ。もちろん、自分がフライト中にずっと寝ていたことを知っている陽子の言う「イギリスと日本って近いんだな」というセリフは単なる強がりなのだけど、強がれるくらいには近いと感じたのも事実だろう。

「寂しくなったら会いに行きマス!隔週くらいで!」
「隔週!?」
「九条家の財力だったらやりかねない・・・」

ほかにも、ビデオ通話だとか、エアメールだとか、「九條家の財力」だとか、隔たりを解消する方法は何度も強調される。原作では、アリスは卒業間際にスマートフォンも購入している。彼女たちは、違う国に住みながら変わらない日常の延長戦をやろうとしているのだ。その結果がどうなったのかは、高校卒業後を描いたきんいろモザイク Best wishes.を読めばわかるだろう。

もちろん現実には、日本とイギリスにはかなりの距離がある。フライトは最短でも14時間はかかるらしいし、運賃も往復で10万円はするようだ。頻繁に行き来するのはかなり難しいだろう。おれ自身、10年前からずっとコッツウォルズに訪れてみたいと思っていて、ときどき旅行の計画を練ってみることもあるのだけど、行けた試しがない。ビデオ通話だって、実際に会って話すのとは勝手が違うだろう。時差だって9時間もある。変わらない日常のコミュニケーションをとるには、彼女達が思っているよりも険しい隔たりがあるのは明らかだ。

しかし彼女達は、そんな隔たりは大したことのないものだと、3年間の日常を通して知ったのだ。きんいろモザイクが描いた3年間はそういうものだった。まあ、現実的に考えるとそう上手くはいかないかもしれないが、フィクションの中なのだから、そのくらいのちっぽけな道理は捻じ曲げてもバチは当たらないだろう。

おれと日常系アニメと10年

さて、あの頃から10年経って、いまでは日常系アニメらしい日常系アニメはほんとうに減ってしまった。けど、たまに良いアニメに出会うと、このアニメはどんな終わり方をするんだろうと考える。日常が終わらないような終わり方だといいとおれはいつでも思っている。日常系アニメはいつまでも続くべきだ。

10年前だって、きんいろモザイクとそこに描かれている日常もいつかは終わってしまうのだろうかと、遠い未来のことを考えていた気がする。忍の夢は通訳者になることだから、卒業したらどこか外国に行ってしまって、日常も終わってしまうのだろうかと考えていた。いまになって考えると、実に滑稽な心配だったと思う。彼女たちと同じ高校生だった10年も前、おれはこの曲を何回も聴いていたのに、きんいろモザイクがなにを描いているのか、あの頃はよくわかっていなかったのだ。

まるで空のように大きな夢紡ぐことも
道の端に咲く名も無い花にはとてもかなわない

作詞:中塚 武  Your Voiceより

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