「くちべた食堂」はおもしろいが、別にいま読まなくてもよい

書籍

「くちべた食堂」という漫画がある。おれはこの漫画がメッチャ好きだ。だが、いまからするのは、「くちべた食堂」はオススメだから今すぐに読め、という話ではない。むしろお前はドストエフスキーの「罪と罰」を読むべきだ。

お前は「罪と罰」を読め

「罪と罰」はめちゃくちゃおもしろい。もし未読ならすぐにでも読むべきだし、既読ならもう一度読むべきだ。

「天才は人を殺しても許されるというヤバい思想を持った主人公のラスコーリニコフが、近所の質屋の老婆を実際に殺してしまい、後悔の念に苛まれながら最後は自首する」みたいな有名なあらすじを、お前も耳にしたことがあるんじゃないだろうか。このあらすじは実に良くない。きわめてつまらなそうで、陰鬱な暗い話に聞こえるからだ。タイトルがイカついのもあってめちゃくちゃつまらなそうだ。ところが実のところ、罪と罰は手に汗握るエンタメ小説だ。

もちろん、このあらすじからわかるように、罪と罰は、どうこじつけても漫画「くちべた食堂」と本当に全くなんの関係もない。だが、いったんおれの話を聞いてほしい。

いま書いたようなあらすじは非常に有名だが、その反面、「罪と罰」のおもしろさを2割くらいしか表現できていない。「罪と罰」には、殺人者の苦悩を精緻に描写する重厚な文章表現よりも、もっとわかりやすく魅力的な要素がいくつもある。罪と罰はバトル漫画なのだ。

もちろん暴力でバトルするわけではない。暴力も無いではないが、基本的に駆け引きや魂のぶつかり合いでバトルをする。バトルの相手は全員オッサンだ。

まず、全編を通してポルフィーリーというオッサンとのバトルが繰り広げられる。ポルフィーリーは刑事みたいな職業の人だ。主人公のラスコーリニコフは流石に天才を自称するだけあって賢いので、物的証拠がまったく残らないように上手いこと質屋の老婆を殺す。完全犯罪というやつだ。だが、ポルフィーリーも賢いのでラスコーリニコフを心理的な証拠だけで追い詰めようとする。ポルフィーリーは微妙におっちょこちょいだが、かなり手強い。強さランキングをつけるなら2位か3位だろう1。まあまあ賢い2人の舌戦は、手に汗握るエキサイティングな展開として描かれる。罪と罰はぶっちゃけ死ぬほど読みにくいが、ポルフィーリーとやりあってるときは急に読みやすくなる。

そして、ピョートル・ペトローヴィチというオッサンが現れる。コイツはなんと、主人公の妹と結婚したいと企んでいるオッサンだ。ちょっと賢いけど卑怯で傲慢な小悪党、みたいな性格だ。小物の小悪党であるが、それゆえにやり口が卑怯で地味に強い。強さランキングをつけるなら6位くらいだ。

最後に、スヴィドリガイロフというオッサンが現れる。名前のイカつさがハンパない。コイツはなんと、主人公の妹と結婚したいと企んでいるオッサンだ。妻を毒殺したという噂のある怪しげな大悪党キャラでもある。こんなやつが妹と結婚してしまったら、主人公のラスコーリニコフはスヴィドリガイロフをお義兄さんと呼ばなくてはいけなくなる。シスコンのラスコーリニコフには耐えられない話だ。スヴィドリガイロフは大悪党だからけっこう強い。強さランキングをつけるなら3位か4位だ。コイツとのバトルも手に汗握るのだが、なによりスヴィドリガイロフはめちゃくちゃ魅力的な悪役だ。罪と罰はぶっちゃけ死ぬほど読みにくいが、スヴィドリガイロフが出てくると急に読みやすくなる。

罪と罰は凶悪なオッサン連中、特に妹につきまとう謎のオッサン連中とのバトルを描いたバトル漫画なのだ。もちろん、昔のロシアの文学だからメチャクチャ読みにくいし、3割くらいは難解なキリスト教の話だからぜんぜん意味がわからない。だが、だいたいの部分はおもしろおかしいエンタメとしても楽しめる。バトル漫画であり、犯罪小説であり、恋愛小説でもあるのが罪と罰だ。その一方で、とうぜん真面目な文学としても楽しめるし、宗教小説としても楽しめるかもしれない。

おれはまだ小僧も小僧だから、難しい部分は正直よくわからない。特に宗教の話は意味不明だ。なんか深いっぽいことを言っている部分も多いのだが、意味はわからない。だが、もう少し歳を取ってからもう一度読めば、そのあたりも理解できるようになっているかもしれない。

お前は何歳だ?何歳なのかは知らないが、きっともう、苦労しながらであれば罪と罰を読める年齢になっているはずだ。何歳だろうとお前は罪と罰を読むべきだ。なにかを始めるのに遅すぎるということはない。もし既に読んでいるのなら、もう一度読むべきだ。同じ小説を二回読むのが嫌なら、カラマーゾフの兄弟でも読んでおけばいい。

くちべた食堂はめちゃくちゃいい漫画だ


くちべた食堂 (ビームコミックス)

ところで、「くちべた食堂」の話だ。この漫画は罪と罰とはマジでなんの関係もない。どうこじつけようとしても、作品の内容に罪と罰との共通点は一切見つからない。むしろ、罪と罰のすべての要素が真逆になった話が「くちべた食堂」だと言ってもいい。

「くちべた食堂」がなんなのかは、おれが説明するよりも、Twitterで公開されている1話を読んでもらったほうが早いだろう。

高校教師のヤナギ先生は、職場の近所にある、客が少なくて入りづらい定食屋を5年間ずっとスルーしてきた。その一方で、定食屋を営むくちなし日代乃もまた、ランチタイムに店の前を通るが決して店に入ってくれないヤナギ先生のことを5年間ずっと意識していた。この漫画は、ヤナギ先生が意を決して定食屋に入ったシーンから始まる。

そうして2人は、5年の時を経て店員と客という関係になった。お互いに仲良くなりたいと思っている2人は、しかし口下手なので言いたいことをうまく言えない。飲食店の店員とその常連の2人の日常を描きつつ、口下手ゆえの不器用なコミュニケーションをコミカルに表現するのがこの漫画の魅力だ。

まあ、ハッキリ言ってめちゃくちゃいい漫画だ。超面白いし、意味がわからないくらい幸福な雰囲気の漫画だ。とはいえ、この漫画はお前にはまだ早い。お前が読むべきは、やはりどう考えても「罪と罰」のほうなのだ。

おれはTwitter漫画がきらいかもしれない

ところで、この漫画はTwitterで連載されているTwitter漫画だ。お前がツイ廃の百合厨なのであれば、きっとこの漫画をTwitterで見かけたことが何度もあるだろう。もちろんおれはツイ廃の百合厨だから、何年も前からTLにはこの漫画が何度も流れてきた。だから、単行本を買う前からおれはこの漫画をたまに読んでいた。たぶん最初に読んだのは2年くらい前だ。もちろん、当時からめちゃくちゃいい漫画だとは思っていた。

とはいえおれは、恥ずかしながらTwitter漫画に謎の悪感情を抱いている。もちろん、特に根拠のない悪感情だ。べつにTwitterに流れてきがちな漫画の内容そのものが嫌いなわけではないし、むしろどれも面白いと思う。だが、Twitterで漫画が流れてくると、どうしても「面白いと思ってやるもんか」みたいな謎の反骨精神が発生する。理由はわからない。とにかく、Twitterで読んだ漫画をきっかけに作者をフォローしたり、単行本を買ったりすることは、おれの中では”敗北”なのだ。

そういう無根拠で無意味な悪感情は、形は違えど、おそらく誰の胸の中にもあるはずだ。お前がTikTokをインストールしていなかったり、「恋空」を読んだことがなかったり、「わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)」みたいな感じのタイトルのライトノベルを読むことに抵抗があったり、パチンコを打ったことがなかったり、K-POPを聴かなかったり、東海オンエアを見なかったり、WBCを見なかったり、Macbookを使わなかったり、ラーメン二郎に入ったことがなかったり、海老名サービスエリアのメロンパンを買ったことがなかったりするのは、きっとそういう根拠の無い悪感情が原因に違いない。いま書いたことのすべてに当てはまらない者だけが石を投げなさい。そして十字路に立って、あなたが汚した大地に接吻なさい。

テレビでよく特集されているがどうせ大してうまくもないに決まっている海老名サービスエリアの350円もする割高なメロンパンを一度でも買うことがお前にとって敗北であるのと同じように、おれにとってTwitter漫画をきっかけに単行本を買うことは敗北なのだ。そこに理屈は存在しないし、正義も存在しないのだが、そんなことは構わない。神がいなければすべてが許される。

ダムはなぜか決壊した

ところがある日、ダムは決壊した。不思議なことに詳しくはよく覚えていないが、なんかTwitterでメチャクチャいい回が流れてきて、つい耐えられなくなって単行本を買ってしまった。おれは敗北したのだ。そういうわけで、おれのKindleライブラリにはくちべた食堂が全巻揃っている。ぶっちゃけメッチャおもしろい。

そして、読み終わってふと気づいた。おれはヤナギ先生だったのだ!

5年間、店の前を通りながら、なんとなく客が少なくて入りづらいから定食屋をスルーしてきた、ヤナギ先生。しょうもない理由で5年間出会いを逃し続けてきたヤナギ先生。ああヤナギ先生、おれは何年も単行本を買わず、出会いを逃してきた。おれのやっていることは先生と同じだ。

そして、「くちべた食堂」に謎の感銘を受けたおれは、気になっているけどなんとなく入りにくくて未だに入れていない飲食店に行こうと思ったのだ。

おれたちは気になっている店に入るべきではない

たとえば、近所にある、回らないが高級でもない寿司屋だ。おれがこの街に引っ越してきて3年になるが、回らない故になんとなく入りにくいのもあって、その店にはいまだに入ったことがない。とはいえ、店構えからして、きっと美味しいに違いない。入ってみるべきだ。

と、そこまで考えて、おれは自分の誤解に気づいたのだ。いま行くのは、早すぎるかもしれない。ヤナギ先生は、5年間も待った!

ふつうに考えれば、出会いは早ければ早いほど良い。少なくとも、たいていの物語はそう主張する。おれたちは、靴紐を固く結んで、そして今すぐ新たな一歩を踏み出すべきで、踏み出すべき時は今この瞬間でないといけない。明日でも明後日でもダメだ。先延ばしにしてはいけない。たいていの物語はそう主張するのだ。

だが、よく考えてほしい。「くちべた食堂」は真逆の主張をしている。ヤナギ先生は、5年間も待った!

もし、2人がもっと早く出会っていたらどうなっただろうか。たとえば、待ったのが5年ではなく1ヶ月だったらどうだろうか。ヤナギ先生は「おいしくて居心地が良くて、なかなかいいお店だな」と思うかもしれない。店員も「おいしそうに食べてくれる素敵なお客さんだな」と思うだろう。

だが2人はそれほど仲良くなれなかっただろう。用がなければ店員に話しかけない常連と、用がなければ客に話しかけない店員というありふれた関係に落ち着いたことだろう。1ヶ月では早すぎる。きっと、すべての出会いには出会うべきタイミングがあるのだ。早すぎてはいけないし、かといって遅すぎてもいけない。

おれだって、Twitterで流れてきたのをひと目見た瞬間に単行本を買っていたら、どうだっただろう。「いい漫画だな」とは思うだろうけど、漫画で描かれていることを追体験することもなかっただろうし、それほどハマることもなかったかもしれない。

だから、おれが近所の寿司屋に行くのは今日ではない。きっと今はまだ早い。おれは3年しか待っていない。すべての出会いには出会うべきタイミングがある。その時がいつなのかはわからないが、少なくとも今ではないはずだ。今日は、いつものくら寿司に行くべき時だ。

この話は決して、3年ならダメで、5年なら良いという単純な話ではない。何年だろうと、今ではないと感じるなら今ではないし、今だと感じるなら今なのだ。なにかを始めるのに遅すぎるということはない。だが、早すぎるということはある。おれたちはもっと待つべきで、だからお前はいったん罪と罰を読むべきなのだ。

タイミングを間違うと何度読んでもおにぎり定食に気づけない

さて、つい先日、単行本の第4巻が出た。さっそく読んだ4巻にはこんな話が収録されていた(おれは未だにTwitter漫画に謎の悪感情があるから作者をフォローしておらず気づかなかったのだが、よく見るとTwitterには3ヶ月前に投稿されていた)。

驚くべき展開だ。ヤナギ先生は大学生の頃、当時はまだ店員ではなかった日代乃に出会っていたのだ!

登山中に食料が尽きたヤナギ先生は、たまたま近くで休憩していた日代乃のおにぎりをわけてもらうことになる。だがヤナギ先生は緊張から日代乃の顔を見ることができず、二人はそのまま別れてしまう。それから何年も経ち、ヤナギ先生は行きつけの定食屋で「おにぎり定食」を注文する。おにぎりを食べてみると、不思議と何処かで食べたことのある味がした。だがヤナギ先生は、このおにぎりをどこで食べたのか、とうとう思い出せないのだった。

二人は、5年待たずに、既に出会っていたのだ。そして二人は、お互いの名前も知らないまま別れてしまった。出会いは運命的だったが、その後に仲が発展することは無かった。

すべての出会いには出会うべきタイミングがあるのだ。二人はどう考えても人生のどこかで出会うべきだった。だが、大学生の時点では早すぎた。

「出会うべきタイミング」がいつなのかは誰にもわからない。1ヶ月後だろうか?あるいは、5年後だろうか?おれにはわからない。だが、そのタイミングはいつかやってくる。そのときになれば、きっと不思議な直感がはたらいて気づくのだ。運命とかいう言葉が好きな人は、これを運命と呼ぶかもしれない。こじつけだなどと考えるのが好きな人は、こじつけと呼ぶかもしれない。だが呼び方はどうだっていい。

きっと、不思議とダムが決壊して「くちべた食堂」を買ってしまったあの日こそが、おれにとっての出会うべきタイミングだったのだ。あの日、なぜダムが決壊したのかはわからない。だが、ダムはたしかに決壊したのだ。

さて、この回に登場する「おにぎり定食」なる謎のメニューは、改めて読み返すと実は2巻にも登場している。

©Bonkara 2022 梵辛『くちべた食堂 2』(株式会社KADOKAWA,2022)p.69より引用

おれはこの回がメチャクチャ好きで、正直、何回も読んでいる。こういう謎のノリの回こそがこの漫画の魅力なのだが、その話は今はいいだろう。そのタイミングではない。

「おにぎり定食」は、実はちょっとした伏線として2巻の時点で登場している。しかし不思議なことに、おれは「おにぎり定食」のおかしさに、何回読んでも気づかなかった。おにぎりの定食なんて、わざわざこの話に出すには少し不自然なメニューで、なにかの伏線だと気づいても良さそうなものだ。だが、この回を読んだときのおれは、特に何も思わなかった。このときはまだ、おにぎり定食に出会うべきタイミングではなかったのだ。

お前は罪と罰を読むべきだ

だからお前は、罪と罰を読め。お前が罪と罰の存在を知ってから、もう何年も、あるいは何十年も経ったはずだ。今頃がちょうどいいタイミングに違いない。

もう少し罪と罰が読みたくなる話をしておこう。罪と罰は内容がエロゲっぽい。主人公にはラズミーヒンという異様に優しい友人がいる。こいつは、Google検索に「ラズミーヒン」といれると、「ラズミーヒン いいやつ」とサジェストされるくらいにはいいやつだ。中二病の主人公、かわいい妹、親友がいいヤツ。完全にエロゲのテンプレだ。罪と罰は内容がエロゲっぽいのだ。ついでに、主人公の家には世話を焼いてくれる女中もいる。ただし、「罪と罰」は妹ルートにも親友ルートにもメイドルートにもならない。攻略ヒロインは、死ぬほど貧乏な近所のオッサンの、娼婦の娘だ。そこだけはちょっと硬派な文学っぽい迫力がある。

「罪と罰」はCLANNADと同じで、全年齢版しか無いタイプのエロゲだ。だからエロシーンはギリ無いのだが、エロシーンなどというものはおれたちに必要ない。決して必要ない。理由は簡単だ。ラズミーヒンのいいやつっぷりだけで心が満たされるからだ。

いいやつと言えば「くちべた食堂」も登場人物みんないいやつなのだが、いまは罪と罰のことだけを考えるべきだ。「くちべた食堂」はまだそのときではない。

すべての出会いには出会うべきタイミングがある。おいしい飲食店、すばらしい友人候補、うつくしい花々、家の外には素敵なものが溢れていて、手を伸ばせば今すぐにでも出会いを果たせると、おれたちはわかっている。わかっているからこそ、まだ出会うべきではないのだ。なにかを始めるのに遅すぎるということはない。だが、早すぎるということはある。だから代わりに、来たるべきその日まで、クソ読みにくくて、長くて長くて、そして長いドストエフスキーを、おれたちは読もうではないか。

だが、もしお前が、それでもドストエフスキーではなく「くちべた食堂」をいますぐに読みたいのなら、好きにすればいい。読みたいと心の底から思ったのなら、きっと今日こそが、そのタイミングなのだろう。すべての出会いには出会うべきタイミングがある。すべての出会いには出会うべきタイミングがあるのだ。


罪と罰(上)(新潮文庫)


くちべた食堂 (ビームコミックス)


わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) (ダッシュエックス文庫DIGITAL)

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