のんのんびより ばけーしょん感想&考察 実は主人公はれんげです

にゃんぱすー。せろりんです。

映画のんのんびより ばけーしょん鑑賞の実践をしてきたので感想を書きつつ考察をします。

劇場版と1期4話のネタバレがあります。

もてなす側ともてなされる側

のんのんびよりばけーしょんは、いつものメンバーが沖縄にばけーしょんに行って、いつメンが民宿の看板娘・新里あおいにもてなされながら楽しく遊ぶ、というストーリーです。よくよく考えてみると、これは実は1期4話「夏休みがはじまった」の逆の視点になっています。

この劇場版を読み解く上で、1期4話はめっちゃ大事な話です。時間がある人は1期4話をもう1回視聴してみるといいでしょう。

1期4話がどういう話だったかというと・・・、父の里帰りで都会からのんのんびよりの町にやってきた女の子・石川ほのかと、宮内れんげの交流を描いた話です。夏休みの間、ほのかちんとれんげは町を見て回って仲を深めていくんですが、ある日、ほのかちんは父の仕事の都合で突然都会に帰ってしまいます。ほのかとれんげはそのまま別れの言葉を交わせずに離れてしまいます。突然の別れにれんげが1週間くらいいじけてしまっているところ、ほのかちんから送られてきた1枚の写真を見て元気を取り戻します。

1期4話は、要するに、他所からばけーしょんに来た人間を宮内れんげがもてなすという内容です。そんで「のんのんびより ばけーしょん」は明らかに4話の逆の状態になっています。

水車小屋とれんげ

「のんのんびより ばけーしょん」でちょっと異様なのは、れんげがスケッチブックに描いた水車小屋の絵です。

(C) あっと・KADOKAWA刊/旭丘分校管理組合劇場|「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」より引用

水車小屋って1期4話以外では出てこないので、1期4話を象徴する風景ではあっても、のんのんびよりを象徴する風景というわけではありません。彼女たちの生活の中心というわけでもないです。

どっこい劇場版だと、スケッチブックに描かれた水車小屋の絵が割と頻繁に出てきます。田舎の象徴や生活の中心なんて、自宅でもバス停でも駄菓子屋でも校舎でもあぜ道でも、ほかにもっとふさわしいものがいくらでもあるはずです。あえて水車小屋の絵をスケッチブックに描いて持っていくのは、それだけ、水車小屋でほのかちんと過ごした時間がれんげにとって思い出深いもので、この夏休みの忘れられない思い出になっていることを表しています。

貴重な「同い年」

れんげにとって石川ほのかは、(おそらく)初めてできた同い年の友達です。

れんげが通っているのは小中合わせて5人の分校ですし、小学校1年生だったらまだ他校の児童との交流もないと思われます。同い年どころか2~3歳差すら身近にいないれんげに、1期の4話では小学校1年生の夏にしてようやく同い年の友人ができます。人生ではじめての同い年の友人との間に感じる親しみは、ちょっと我々では想像できないくらいのものでしょう。

(C) あっと・KADOKAWA刊/旭丘分校管理組合劇場|「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」より引用

それは夏海にとっても大体同じことが言えるわけです。旅先で出会った同い年の新里あおいに対する夏海の感情もまた特別なものです。

どっちかという粗野な夏海に対して、あおいはていねいな言葉でテキパキと接客をこなします。夏海は、同い年なのに性格や立ち振舞が全然違うあおいのことを最初は自分と比較して見ていました。交流を深めるうちに、実はあおいも自分と同じで、母親のカミナリを恐れながらコソコソ悪さをし、友達とはタメで喋ったりする普通の女の子だと知ります。夏海はあおいに徐々に興味を持っていきます。

普通に考えれば、毎日バドミントンの練習をしている人間に素人の夏海が叶うわけがないのにもかかわらず、夏海がバドミントンでわりと粘っていたのは、同い年だから負けたくない、という意識があったのかもしれません。れんげにとってほのかが特別であったように、夏海にとってもあおいは特別なのでしょう。

夏海の背中を押すれんげ

最終日、宿をチェックアウトした夏海は、あんなに仲が良くなったあおいにお別れを言わないまま宿を発とうとします。人生で初めてかどうかは知りませんが、おそらく数少ないであろう同い年の友人に別れを言うことが辛いという夏海の気持ちは容易に想像できます。照れくさいというのもよくわかります。

粗野なのに意外にシャイな夏海に「お前それでええんか」「ちゃんと別れ言わんでええんか」と目で語り、背中を押すのが宮内れんげです。

れんげには、1期4話で「さよなら」と一言交わすことができないままほのかと別れてしまった経験があります。その辛さや寂しさを知っているれんげは、万感の想いを込めたアイコンタクトで夏海の背中を押します。

(C) あっと・KADOKAWA刊/旭丘分校管理組合劇場|「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」より引用

「さよなら」が言えていればれんげは1期4話でほのかが居なくなった後に1週間もいじけていなかったわけで、その辛くて寂しい思いを、夏海に、そしてあおいにも、してもらいたくなかったんでしょう。「さよなら」を交わせない寂しさは、あの中でれんげだけが知っていたのかもしれません。

スケッチブック一面に描くほのかちんからの写真

れんげが夏海にプレゼントした1枚の絵。最後に内容が明かされる1枚の絵は、ラケットを持った夏海とあおいの笑顔の絵でした。

(C) あっと・KADOKAWA刊/旭丘分校管理組合劇場|「劇場版 のんのんびより ばけーしょん」より引用

のんのんびよりをりぴーとしまくっている方じゃなければ覚えていないかもしれませんが、4話の最後でほのかから贈られてくる写真も、実は笑顔どアップのれんげとほのかの写真です(れんげはこれが笑顔です)。ほのかは4話で田舎の写真を何枚も撮ったはずなのに、この写真1枚だけをれんげに贈ったのです。

(C) あっと・株式会社KADOKAWA メディアファクトリー刊/旭丘分校管理組合|「のんのんびより」4話より引用

この写真を受け取ったれんげは、劇場版ではまったく同じ構図の絵を1枚だけ夏海に贈ります。

れんげは本気出せばコンテストくらい余裕で入賞できる神の画力があるという設定で、独創的な創作が大好きな芸術家肌です。そのれんげが、もらった写真とまったく同じ構図の、言ってしまえば独創性も個性も無いごく普通の絵を夏海に贈ります。夏海とあおいが二人っきりで笑っているだけの、どこにでも転がっているような絵です。

れんげは、ほのかからあのたった1枚の写真が送られてきたときのうれしさを、夏海にもわけてあげたかったんでしょう。

こうして見ていくと、夏海の物語だと捉えられがちなこの映画は、実はれんげの物語でもあることがよくわかります。この映画の主人公は夏海だと思われがちですけど、実はれんちょんもかなり主人公っぽいことをしています。

夏海は夏海で、もらった絵を部屋に飾っています。普通中学1年生が小学1年生にもらった絵なんて部屋に飾らんくないですか?照れくさいやら要らないやらで、なんとなく机の中に突っ込んで半年くらいしたら捨てちゃいませんか。絵をもらってどんだけうれしかったんだ越谷夏海。粗野だけど意外と情緒を大切にする女なんですよね、越谷夏海。

追記:夏海はあおいと再会するのか?

のんのんびよりばけーしょんみたいな話って、つまり旅行先で友人が出来て別れを惜しみ再会を約束する話って、現実世界でも子供のときにたまに発生しますよね。ところが現実だとその後どうなるかというと、再会を約束しても、何年か経つと忘れてしまったり、いまさら会っても気まずいだろうな、と思って結局再会しなかったりするわけです。現実はクソです。

夏海とあおいもそうなってしまうのかな、という寂しい考えも余裕でできます。なんてったってあおいが住むのは石垣島のさらに南、台湾にほど近い竹富島です。中学生とか高校生では気軽には行けません。

はっきり言ってこういう話は再会するかどうかわからないから美しいんであって、その後について推測をするのは死ぬほど野暮なんですが、ちょっと珍説を思いついてしまったので書きます。今作での沖縄旅行のおもいでを歌った曲と我々が認識しているエンディング曲「おもいで」を聴いてみましょう。

『珍しいいきもの 追いかけ』
『おなかいっぱいで 地球に寝転ぶ』
『横切る無愛想猫』
『さとうきび 剥いてまるかじり』

おかしいですね。見事にいつメンが劇場版では経験していないことばっかり羅列されています。珍しい生き物はいたにはいましたが、別に追いかけてはないですよね。まあ、このへんは映像になっていないだけで、実は写っていないところでやっていたのかもしれません。狙ったようにやっていないことばかり歌詞になっているのは気になりますが、偶然かもしれません。ところがですね。

『微笑むイルカに 追われて』

えっ!?これは絶対おかしいですね。イルカに出会えなかったことは、れんげの唯一の心残りとして映画の中で印象的に描かれていることです。この映画のキモといっても良いくらいです。まあこのへんは作詞者が「沖縄っぽい出来事入れときゃそれっぽいだろ」という意図で本編の内容を知らずに入れてしまったのかもしれません。「宝物を描いたスケッチ」「砂も虫も人間も」という歌詞もあるので本編の内容をまったく知らないで歌詞を考えたなんてことは考えにくいと思いますが、そういうこともあるかもしれません。ところが。

『増える記録と深くなる記憶 染み込ませてまたいつか「ただいま」を言おう』

これですよこれ~~。「おもいで」という曲は、要するに、「沖縄旅行楽しかったけどもう地元に帰らないといけないから残念だなあ」という曲です。そういったシチュエーションで、またいつか「ただいま」を言う相手は何なのか、という話です。

「ただいま」という挨拶は普通、家族や地元に住む人に対して言うものです。比喩的に、自分が住んでいる町そのものや、家そのものに言うケースもあるでしょう。でも、今から自宅に帰ることがわかりきっているのに「またいつか」家族や地元の人や地元の町や家にただいまを言おう、ってのはどう考えてもおかしいです。ですから、「ただいま」を言う相手は、夏海たちの家族や夏海たちが住む町ではありません。

では「ただいま」は誰に言っているんでしょうか。そういえば我々は、地元と同じくらい親しんだ土地に「ただいま」を言うことがあります。たとえば、長野を故郷同然に思っている人は実際に長野に住んだことがなくても長野旅行の度に「ただいま」を言うでしょう。そう考えると、この歌詞は「またいつか再び沖縄を訪れるかもしれないから、そのときは、地元も同然なくらい親しんだ沖縄や沖縄に住む人に対して比喩的に『ただいま』を言おう」という意味だと解釈するのが自然です。

ところが、3泊4日で1回行っただけの沖縄に対して「次訪れたときにはただいまを言おう」なんて思うでしょうか?いくら思い出深い経験をしたとはいえ、1回しか訪問していないのであれば「ただいま」を言おうとは思いません。ふつうは「ただいま」を言いたくなるのって最低でも2,3回は訪れてからです。人生で1度しか行ったことがない都道府県のことを思い出していただきたいんですが、そこに対して「ただいまって言いてえ~」と思ったことあります?おれは無いです。秋田とか徳島とか、また行きたいとは思いますが、ただいまを言いたいとは流石に思いません。

事実、今作において沖縄は「とても興奮する最高のばけーしょん先だった」という描き方はされていますが、「地元みたいに安心できる心休まる場所だった」という描き方はされていません。のんのんびよりの町と、竹富島とでは、景色も気候も何もかも違いすぎます。1回めの訪問の時点では「ただいま」は別に言いたくなっていないわけです。

てことは、この曲は、「ただいま」を言いたくなるくらい沖縄訪問を重ねた人が自分の心情を歌っている曲だということになります。つまりこの曲は、初めて沖縄を訪問したときの、劇場版でのおもいでを歌った曲と見せかけて、最低でも2回め以降に沖縄を訪問したときのことを歌った曲なんですよ!

さとうきび丸かじりも、珍しい生き物に追いかけられるのも、イルカに追われるのも、全部1回めでは経験できなかったけど2回め以降で経験することができたことだと考えると納得がいきます。

夏海たちは、実は劇場版の後にもちょくちょく沖縄に行っているんですよ。そしてこの曲は、そのときのことを歌った曲なのです。越谷夏海とかいう女は、ちょくちょく新里あおいに会いに行ってよろしくやっておいて『らんらんらん らんらんらん あなたと過ごす』なーんて陽気に歌ってるわけです。とんでもない女です。以上珍説でした。

まとめ

劇場版は本編未視聴でもぼちぼち楽しめると思いますし、放送当時アニメ見てたよという方も十分楽しめるとは思うんですが、本編の、特に1期4話をもう1度見ておくとより一層楽しめる映画だなという印象です。2期4話も見とくといいかもしれません。

星空と夜光虫の圧巻のワンカットで感動し、夏海が泣くシーンでおれも号泣し、れんげから贈られてきた絵の内容が明かされるシーンでまた号泣するという、今年の夏の最後を飾るのにふさわしい最高の映画でした。最後の、れんげが家の空気を吸って感傷に浸るシーンも素晴らしいです。家に帰って玄関の空気を吸うまでがばけーしょんだという思想なんですよ。センスしかないですね。

そういうわけで、れんちょん、空を越えて、海を越えて、いつの日かまた続きを描けるといいですね。

今回はここまで。せろりんでした。

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