日常をドリーミーに――トイカメラ漫画「ぎんしお少々」感想

写真、カメラ

おれの実家には不思議な不思議な1枚の写真があります。サービスエリアの駐車場に停めてある大型バスを背景に、4歳くらいのおれが大人の腰の高さの柵を乗り越えようと右足を上げてふんばっている写真です。いまはほとんど使われなくなったカラーネガの135フィルムで撮影されている点と、構図がややイケている点を抜きにすれば、特に語るべきところのない実にありふれた写真です。家族のだれがこの写真を気に入ったのかはわかりませんが、この写真は気づいた頃には写真立てに入れられていて、今日まで実家の玄関の片隅に飾られています。

不思議な写真の話

こんにちはせろりんです。せろりんは写真とカメラが趣味です。フィルムもデジタルもやります。この記事は、ついこのあいだ完結したカメラ漫画「ぎんしお少々」の魅力に迫りつつ、その表現をもとに、写真とはなんなのか、カメラはなぜ楽しいのか、とりわけフィルムのトイカメラはなぜとびりき楽しいのかについて考える記事です。

さて玄関に飾られている写真を再現したものがこれです。この写真の不思議なところは、写真を撮られたときのことをおれが鮮明に覚えている点に尽きます。

家族旅行の最中、停車している大型バスの隣を走っていった4歳のおれが、小さい体で駐車場の柵を乗り越えようと右足を高く上げていて、その姿を父親が楽しそうに撮影している瞬間が今でも確かに思い出せるのです。

冷静に考えるとこの記憶は非常に不可解です。このどうでもいい出来事に、20年ものあいだ脳にとどめておくべき価値があるとは到底思えないからです。記憶が一部だけやけに鮮明なのも違和感があります。バスが停まっていたとか、上げていたのが右足だったとか、そういったどうでもいいようなディティールを20年ものあいだ覚えていられるものでしょうか?当時の他の記憶はほとんど残ってないのに?旅行の目的地がどこだったのかも憶えていないのに?記憶と完全に一致した写真が偶然たまたま玄関に飾られているのもおかしな点です。

普通に考えれば、柵を乗り越えたときの記憶は玄関に飾られている写真を頻繁に見ることによって発生した偽の記憶なのでしょう。おれが記憶の通りの行動をしていた事実は間違いなく存在したものの、その記憶はすぐに一度忘れられ、その後玄関に飾られた写真によって再構築されたのです。だとすれば、記憶が一部だけやたら鮮明な点も、記憶と一致する写真が玄関に飾られ続けている点も、すべて説明がつきます。このように人間の記憶は極めてあやふやで、だからおれたちは写真を撮るのです。

ぎんしお少々の話

写真を題材にした数多くの漫画やアニメの中で「ぎんしお少々」が少々特別なのは、トイカメラを題材にしている点です。トイカメラとはボディやレンズにプラスチックを多用してあえてチープ作ったオモチャカメラのことです。いろいろあるトイカメラの中でも、この漫画の主人公はデジタルではなくフィルムを使ったタイプの、しかも安価で主流な135フィルムではなく120フィルムを使ったタイプの中判フィルムトイカメラを愛用しています。

さて普通のカメラはレンズが命です。フィルムカメラの画質はレンズで決まるので、レンズメーカーは少しでも美しい写真が撮れるように、厳密な設計をもとに特殊なガラスを極めて高い精度で加工してカメラに装着しています。一方で主人公の使うトイカメラ「Diana F+」のレンズはプラスチックで作られており、その品質はお世辞にも高いとは言えません。

Diana F+が写すのは、良く言えば「ドリーミー」であると称されるような、夢の世界のようにおかしな色で写ったボヤボヤした写真です。塩原もゆるさんは、一体なにが悲しくてこのようなおかしなカメラを使うのでしょうか。

写真とはその名の通り真実を写すものであるべきですし、写真とは不確かな記憶を脳に変わって正確に記録しておいてくれるものであるべきです。つまり普通に考えれば、「良いカメラ」とは、できるだけキレイに、できるだけ写実的に映るカメラのことであるはずです。

いったいどうして塩原もゆるさんは、すばらしく写実的に映るスマートフォンのカメラではなく、中判フィルムトイを使うのでしょうか?

写実的な写真の嘘の話

Canon EOS 60D/Canon EF-S 24mm F2.8 STM ISO100,1/2000,f2.8

良いカメラは世の中にいくらでもあるのに、なぜ塩原もゆるさんはDiana F+を選ぶのでしょうか。ここでは、良いカメラだとされているカメラで撮影した作品を見てみましょう。この白鳥の写真は、おれが高校の写真同好会に所属していた当時にしてはそこそこ性能の良かった「EOS 60D」というデジタル一眼レフに、比較的眼球に近いズーム性能を持つ単焦点レンズを装着して撮影したものです。

目にピントが合っていないという動物写真としては致命的な失敗をしている写真ではありますが、パッと見はとても迫力のあるキレイな写真です。しかしよく考えてみると、桟橋から水鳥に餌をやる瞬間が肉眼でこのように見える人はおそらく居ないでしょう。咄嗟のシャッターチャンスにくちばしの内部や表面をここまで精密に捉えられる人はいないでしょうし、くちばしからしたたる水滴を捉えることも大抵はできないはずです。この写真は間違いなく過去のある瞬間を正確に切り取ったものである一方で、EOS 60Dの写り方は人間の見え方とはあまりにも違います。EOS 60Dの写真は鮮明すぎるのです。

どうやら、実際に起こった瞬間をそのまま切り取っても、人間の眼に見えているのと同じような画にはならないようです。そもそも、人間の視界はこの写真のような横長の長方形ではなく、円形に近いものであるはずです。

HUAWEI P30/2.26mm F2.2, 1/1828, ISO50

これは、HUAWEIのP30という、カメラにこだわったイマドキのスマートフォンで撮影した写真です。御存知の通り、日本でこのような青空が見えることはありえないでしょう。

HUAWEIのカメラは、独自のAI技術を用いた補正を自動的に行うことで、この写真のように色を強調した写真を保存します。つまり、この写真はHUAWEIのAIがでっち上げたウソっぱちの写真なのです。いまどきのデジタルカメラは、どれも(HUAWEIほど極端ではないにしろ)ソフトウェアを用いて色合いや明るさを加工した写真を出力します。どんなデジカメも、写実的なように見えて実際はウソの写真を出力しているのです。

HUAWEIの言い分によると、このような現実よりも強調された色は「記憶色」として知られており、HUAWEIのカメラは記録色ではなく記憶色を撮影しているのだそうです。たしかに、我々が記憶している色は実際の色とはかけ離れていることがあります。我々は桜の色をピンクだと記憶している一方で、実際の桜の花びらはほとんど白色です。コップの水を想像してみると青みがかった液体を思い浮かべますが、実のところ水は無色透明です。

記憶色を撮影しているHUAWEIの写真は若干ウソっぽい一方で、リアルでナチュラルな補正しかしない先程のEOS 60Dのようなカメラも、それはそれで記憶の中にあるリアルな画とはまったく異なった真っ白い桜の写真を写すのです。はたして写実的な写真、つまり真実を写している写真とはなんなのでしょうか。

OLYMPUS XA2

フィルムだったらどうでしょうか。フィルムであればソフトウェアによる加工が入る余地は無いはずです。この写真はOLYMPUS XA2というそこそこ写りの良いカメラに富士フイルム製のフィルムを詰めて撮影した写真です。平面的にすら見える鮮烈な赤と深い緑が印象的な写真ですね。

フィルム写真を撮る人の間ではよく知られた話ですが、富士フイルム製のフィルムは緑色がキレイに写るといわれています。たしかにこの写真を見ても、チューリップの赤やたんぽぽの黄色はインクを垂らしたようにのっぺり写っている一方で、緑の葉には1枚1枚を立体的に区別できるグラデーションが存在しています。

フィルムはデジタルと違って真実を写しているように思えても、実はこのフィルムは、富士フィルムの技術者が、緑こそをキレイに撮れるようにニヤニヤしながら成分を調製したフィルムなのです。なにが言いたいのかというと、フィルムだろうがデジタルだろうが、あらゆる光学機器やフィルムには「こう写ってほしい」という設計者の意図が含まれている、ということです。あらゆる機械に設計者がいる以上、真実を写してくれる機械はこの世には無いのです。

記憶を撮る

ここまで見てきた通り、高性能なデジイチも、最新のスマホカメラも、昔ながらのフィルムカメラも、どれも真実を写しているのかと聞かれると違和感があります。どんなカメラにも設計者の意図が含まれているのです。

ところでカメラであるところの人間の目にも設計者の意図が含まれています。人間の視覚が本当のことを写していない事実は、人間の視界は過去15秒の平均であるとする研究結果や、人間の脳が実際は見えていない盲点の部分の映像をでっちあげているという事実や、この世に無数にある錯視の絵の例からも明らかです。人間の視界は眼球のハードウェア的な欠点を補うためにHUAWEIのAIも真っ青なコテコテの補正を行っていて、その弊害として錯視が起こるのです。人間の目すらデタラメなのだとしたら、何を基準にカメラの良し悪しを論じれば良いのかは最早よくわかりません。

良いカメラの基準は人によっていろいろあるのかもしれませんが、いま思い浮かぶのは、記憶を基準とする方法です。我々が真実として参照できるのは、我々の脳にある記憶だけです。良いカメラかどうか、つまり撮れる写真が真に写実的であるかどうかは、記憶を頼りに思い出した映像と照らし合わせて違和感が無い画が撮れるかどうかだけで決めるしかないのです。

©Nikomi Wakadori 『ぎんしお少々』第1巻(株式会社芳文社,2021)p.71より引用

つまり、記憶色を写すHUAWEIのカメラが最強なのです!・・・・・・・とはなりません。

記憶と照らし合わせた上でも、日本で見れる空があれほど青かった試しはありません。おれはHUAWEIスマホが大好きなんですが、それはそれとしてHUAWEIのいう「記憶」は、おれたちの脳の中にある記憶とは少し違う概念のようです。なにより、色合いがどうとか以前に、HUAWEIのカメラで撮った写真は写りが良すぎるのです。

よくよく考えてみると、われわれの記憶の中にある画はいままで紹介した写真よりもずっとおぼろげで、色がくすんでいて、周辺光量落ちが発生していて、目を見開いたときの視野は円に近いものであるはずです。さらに言うと、われわれは覚えていることよりも忘れてしまうことのほうが多く、何を覚えておいて何を忘れるかは自分の意思では選べません。

ここにLomographyのDiana F+があります。プラスチックのレンズが写す写真はおぼろげで、色合いはくすんでいて、周辺光量落ちが発生していて、それゆえ円に近い画が撮れます。その上このカメラは、通常のカメラがもつ機能のほとんどが簡略化されているために撮影が難しく、現像してもなにも写っていないことのほうが多い場合すらあります。まさに我々の脳にある記憶そのものを(結果的に)再現しているのがこのカメラなのです。Diana F+は、目の前の物体ではなく、それを見たときのわれわれの記憶そのものを撮影する、世界で最も写実的なカメラなのです。

Lomography Diana F+ /Ektar100

撮れる写真はこんな感じです。昔ながらのゲーセンは、おれたちの記憶の中でこういう写りをしていないでしょうか?

Lomography Diana F+ /Ektar100

Diana F+は絞りを開放すると(曇りマークにダイヤルを合わせて撮影すると)写真の隅が円形状に暗くなる現象が発生します。この現象をカメラの世界では周辺光量落ちと呼びます。周辺光量落ち自体はどんなカメラでも原理的に多かれ少なかれ発生するものではありますが、ここまで激しく起こるカメラはなかなかありません。周辺光量落ちが起きやすい理由の一つは、Diana F+が中判フィルムを使っているからです。ところで我々の視界も周辺光量落ちしていないでしょうか?

Lomography Diana F+ /Ektar100

人間の記憶には限界があるので、おれたちは見たものの色や形を単純化して記憶しています。我々の記憶は、デジタル一眼レフカメラの精細な写真よりも、このような単純化された画に近いはずです。

©Nikomi Wakadori 『ぎんしお少々』第2巻(株式会社芳文社,2022)p.92より引用

ところで、記憶に近い写り方をするのはなにもDiana F+だけにかぎらず、安価に作られた昔のフィルムカメラなら大体同じことが言えます。「ぎんしお少々」が取り上げるカメラは、いずれも安価に作られた昔のフィルムカメラばかりです。

ここで、安価に作られた昔のフィルムカメラであるところの箱カメラ自作キットを使って風花かなめさんと若葉谷セツナさんが撮影した写真を見てみましょう。2人が撮った写真には背景しか写っておらず、人の姿は霧のよう写り込むだけでした。

人間の記憶だと、こういうのはよくあることです。おれの幼少期のことを思い出してみると、幼稚園の時に誰かと一緒に円形の砂場で自分の身長くらいある深い穴を掘って遊んだ思い出は蘇ってきても、誰と一緒だったのかはまったく思い出せません。砂場のデザインや穴の深さは覚えていても、人の顔だけあやふやなのです。このように人間の記憶は極めてあやふやで、だから彼女たちはあやふやなカメラを使うことでそのときの記憶そのものを撮影するのです。

©Nikomi Wakadori 『ぎんしお少々』第2巻(株式会社芳文社,2022)p.94より引用

もしこのとき2人が使っていたカメラがキヤノンのデジタル一眼レフやHUAWEIのスマホのような写りが良すぎるものであったら、この写真はそれほど思い出深いものにはならなかったはずです。高性能なデジカメにはたしかに2人の顔が鮮明に写るのかもしれませんが、その写真を見ても、撮影したときの楽しかった気持ちはほどほどにしか蘇らないでしょう。楽しい気持ちは高性能な光学機器には撮りにくく、記憶の中の映像に近いブレた写真やボケた写真にこそ写るのです。塩原もゆるさんは、あえてあやふやに写るカメラを使うことで、楽しかった気持ちも含むそのときの記憶そのものを撮影しているのです。

写真の魔力について

©Nikomi Wakadori 『ぎんしお少々』第1巻(株式会社芳文社,2021)p.98より引用

ところで、作中で何度も描かれているように(そして現実でもよく体験するように)、写真によって忘れていた記憶が鮮明に蘇る現象はよくあることです。藤見姉妹は、この隠し撮り写真を見ることで、昔のある日に2人で楽しく遠足を行っていた事実を鮮明に思い出しました。

ここで重要なのは、見切れて写っている塩原まほろさんによく似た高校生の存在です。当時の2人にとって塩原まほろさんはモブキャラ以外の何物でもないので、2人がこの高校生の姿を覚えていることはまずあり得ないはずです。ところが、この写真を見たことによって、藤見姉妹は大昔に一度塩原まほろさんと出会っていたことを現実として受け止めることになりました。

高校生の姿は姉妹の脳からすでに完全に忘れ去られているはずであることを考慮すると、このとき起こった現象は、「思い出す」と呼ばれるべきものではなく、忘れられていた記憶の空白部分が写真によって「上書き」されたのだと捉えたほうが正確です。記憶が上書きされる現象は、音声や文章やイラストのような情報ではほとんど起こらない一方で、写真では頻繁に体験することができます。写真だったからこそ、2人は塩原まほろさんと過去に出会っていた事実を受け入れることができたのです。

写真には人間の記憶を上書きしてしまう魔力があって、われわれは写真に写っていることはすべて真実だと認識してしまうのです。

日常をドリーミーに

©Nikomi Wakadori 『ぎんしお少々』第2巻(株式会社芳文社,2022)p.119より引用

ところで塩原もゆるさんがDiana F+で撮る写真は、「ドリーミー」と呼ばれる独特の写り方をします。写真の周囲に黒い影が落ちていたり、謎の赤い模様が写っていたり、色合いがおかしかったりする写真はいかにも夢の世界のようで、写真を見ていると、被写体はユニークな世界で楽しく暮らしている存在であるかのように思えます。

そして我々は、写真に写っていることはすべて真実だと認識してしまいます。つまり我々は、作中に登場する塩原もゆるさんの撮った写真を見ることで、彼女たちの日常の姿は写真のようにドリーミーであるはずだと錯覚してしまうのです。

我々は、たとえば坂本龍馬と言われたら白黒の世界を生きた人物を思い出しますし、田中角栄と言われたらカラーフィルム特有のこってりした濃い肌の色の世界で活動した人を思い出します。その人がどんな世界を生きたかは、その人が写っている写真の写りによって決まるのです。

ほとんどの場合、漫画の中で彼女たちは白黒の絵として描かれ、不器用な人物としてそれなりに苦労をしながら生きているように描写されます。その一方で、おれがこの漫画のことを思い出すとき、彼女たちは(2巻の表紙のような)独特の色の世界で幸福に暮らしているような気がしてならないのです。みなさんが思い出すぎんしお少々の日常がドリーミーなものであったとしたら、それはこの漫画の中で取り上げられる塩原もゆるさんの写真の魔力によるものに違いありません。記憶に近い写り方をするトイカメラは、われわれの脳の中に入り込んで記憶を書き換えてしまう魔力が普通の写真よりも強いのかもしれません。

写真に撮られることをあれほど嫌がっていた藤見銀さんが2巻のラストシーンで撮影に慣れているのは、単にカメラを向けられることに慣れたから、だけではなく、塩原もゆるさんの撮るドリーミーな写真を見続けることで、自分の住む日常と自分のイメージが変わったからなのかもしれません。

彼女たちが写真を撮るのは、フィルムとプラスチックレンズの色の世界で過ごす自分の姿を離れて暮らす姉妹に見てほしいから、というちょっとした見栄なのかもしれないです。おれたちはそのおこぼれとして白黒の漫画の世界の思い出をカラフルで楽しくて写実的なものとして感じることができるのです。おれたちも、たまにはフィルムのトイカメラを片手に散歩にでも出てみるといいのかもしれません。運良くなにかが写っていれば、スマホカメラの色で思い出すいつもの日常をドリーミーに上書きできるかもしれません。

せろりんでした。

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ギャラリー

せっかくこういう記事なのでオマケとしておれが撮った写真を晒します。ぎんしお少々とはあまり関係ないので見なくてもいいです。上手くはないです。

HUAWEI P30

本文中で青がどぎついと書いたHUAWEI P30で撮影した写真です。やや貶すようなことを言いましたが、実際のところP30は3年前のスマホにしてはめちゃくちゃいいカメラを搭載しています。あんなにキツい青色が出ることは稀ですし、AIの補正は設定でオフにもできます。ときどきAIが暴走するものの、そういうところも含めておれは大好きなカメラです。なんてったってHUAWEI P30はライカブランドのカメラを搭載しています。商品開発に際してライカはおそらくブランドを貸しているだけで、実際にカメラの仕様を決めているのはほとんどHUAWEIでしょう。しかし大事なのはライカがブランドを貸すにたると判断した事実です。日本人にとってライカはいつまでも特別な存在なのです。

EOS 60D 50mmf1.8 ISO320 F13 1/80 宙玉レンズ

ガラス球を通して像を得る特殊なレンズ「宙玉レンズ」を自作したときに梅園で撮りました。老夫婦がもう少し大きく写っていると良かったんですが、おれのような人間が見知らぬ人を近くで撮ると不審者丸出しなので限界があります。高校生のときは写真同好会の腕章をつけていたのでもうちょっと遠慮せずにバシバシ撮っていた気がしますが、いまは腕章が無く、見た目も完全にオッサンになってしまったので目立つ行為はできません。年取ると写真撮りにくくなる問題は残念ながら女子高生各位であっても避けられない運命だと思うので、ぎんしお少々の登場人物のみなさまにおかれましては制服を着られる高校生のうちにバシバシ撮っていただければと思います。まあでも、何歳になってもコスチュームプレイをすればいいだけの話かもしれません。おれも実は写真同好会の腕章を借りパクしていて今でも防湿庫の片隅に置いてあるので、たまには使ってもいいのかもしれませんね。いや、さすがにだめか・・・。

Canon EOS 60D/Canon EF-S 24mm F2.8 STM ISO100,1/2000,f2.8

動物写真は目にピントを合わせるのがセオリーで、ピントが外れていると失敗写真とみなされることがほとんどです。しかし、こういう咄嗟の瞬間に動物の目を肉眼で正確に捉えている人間はほとんどいないはずで、そういう意味ではこの写真はリアルだと言えます。冷静に考えると失敗写真であるかどうかは他人ではなく自分が決めることではあるんですが、コンテストに出すとなるとこういうセオリーから外れた失敗写真は基本的に入選しないので、今日もおれたちはがんばって畜生の目にピントを合わせる修行をしないといけません。このシチュエーションだったら絞りを絞ればいいだけの話で、単におれが下手なだけではありますけど。まあコンテストなんて出さないほうがいいのかもしれないですね。どこにピントを合わせるか、みたいなかったるいことを考えなくていいのは写りの悪いカメラの良いところでもあります。写りの悪いカメラはピントなんてどこにも合わないのです。

Rollei35 TE

デジタルよりもフィルムのほうが撮ったときのシチュエーションを覚えていることが多い気がします。おそらく1発最低60円がかかっているからでしょう。ただハーフカメラならもう少し安くなります。おれもPENを持っていた時期があるんですが、とはいえハーフカメラは72枚も撮らないといけないのが苦手すぎて売ってしまいました。フィルム撮影は待つのも楽しい、みたいなところがありますが、待ちすぎるのはやっぱり辛いです。72枚を撮るには時間がかかりすぎるのです。かといってDiana F+の12枚は少なすぎる気もします。ちょうどいいのは27枚くらいでしょうか。

Lomography Diana F+ /Ektar100

おれのような下手くそがDiana F+で撮った写真の多くはこんな感じです。とはいえ本当に一切なにも写っていないことは稀で、実際はこの写真のようにちょっとした影が写ります。このとき何を撮っていたか思い出しながら写真を鑑賞するのも楽しいかもしれません・・・と好意的に捉えるのはさすがにマゾが過ぎるでしょうか?この写真は紫陽花を撮ったものです。

Lomography Diana F+ /Ektar100

とはいえせろりんは「振り回されてニコニコしちゃうドエム」よりは「それでも使いこなしてやりたいとするドエス」に近い気がします。この写真はうまいこと小細工をしてキレイに撮れるように撮ったキレイな写真です(詳しい人向け解説:曇りの夕方にISO100のフィルムを使って目一杯絞った上でバルブで2秒かけて撮影しました)。奥の山を見てもわかるように、トイカメラとは思えないほど精細に撮れています。ただし、手持ちだと絶対にブレるモードを使ったので、ブレないように台の上に置いて慎重に撮った結果、キレイに写ったものの代償として構図がよくわからない感じになりました。ドエスへの道は険しいようです。塩原もゆるさんはどっちなんでしょうか。

せろりんでした。

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